日本宣教論(73)黒人神学 後藤牧人

2018年9月5日22時18分 コラムニスト : 後藤牧人 印刷
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黒人神学

黒人の信仰内容を具体的に表現している者として、ジェームス・H・コーンがいる。ニューヨーク・ユニオン神学大学院教授の彼の著書に "God of the Oppressed"(『抑圧の犠牲者のための神』1975, Orbis Books)がある。

次に、その内容をあらまし紹介する。アメリカ大陸には白人は圧迫者、暴君として上陸し、黒人は奴隷、残酷な待遇の被害者として上陸した。また、先住のインディアンは、絶滅政策の対象であった。

この体制を許容し支持したのは、白人の神学である。その点では封建的なルーテル教会と、資本主義体制と一体であるカルヴィン派教会の2つの神学が特に甚だしかった。メソジスト派とパブテスト派は、初めは奴隷制度に反対していたが、やがて妥協してしまった。

このような「圧迫・被圧迫」の構図を支持し、これに異議を唱えず、苦しむ者の状態を放置した白人クリスチャンの態度は、イスラエル史の精神に反し、預言者の教えを無視し、キリストの恵みを冒涜(ぼうとく)するものである。白人が教えてきたキリスト教信仰は、聖書的でない。彼らのキリスト教倫理は、悪魔的である。

キリスト者はすべてこの構図の解消のために努力し、被圧迫者である黒人の解放のために闘争せねばならない。それがキリスト教倫理の根本である。それに結び付かないものはすべて虚偽である。

黒人がこの構図を是正しようとして暴力に訴えると、白人社会はすぐ「社会の平和と秩序を守れ」と言う。それもインチキである。その態度こそが「圧迫・被圧迫」の構図の存在を長引かせるのであり、黒人はこれらのまやかしの倫理に左右されてはならない。白人のものを盗んでもいい。この闘争のためなら許される。

白人キリスト教会の中には、黒人たちの闘争に同情的だった者もいたが、南北戦争後に奴隷制度が廃止されると、安心してしまった。これもマヤカシである。黒人の地位は法的には変わったが、この構図自身は変わっていない。外面が変化したが、実質は変わっていない。

黒人の信仰は終末的であり、現在の世界とその体制の根本的な変革を目標としている。それが実現したとき初めて、イエスにあって黒人は誇りと自己の尊厳を取り戻して生きることができる。

以上、簡単ながらコーンの論旨を紹介した。コーンの論述は、アメリカ黒人の悲劇、その絶望性という点に集中しているように見える。すべてをその観点から見ており、過去2千年間のキリスト教会の営為のすべてはただその一点で判断されている。つまり、この問題が真理・虚偽を判定する、唯一で絶対の指標となっている。その指標により過去のキリスト教会の営為のすべては、ほとんどが否定され、無価値とされてしまっている。過去のキリスト教会の信仰は、すべて無効、虚偽だったとされている。

「白人優越・有色人種劣等の概念」が黒人を踏みにじってきたというコーンの告発は、アジア史の状況を知る者として同感を覚える。またその「概念」が、キリスト教哲学(組織神学)の深部に入り込んでいるという告発にも、深い共感を覚える。

日本宣教について考究しようとする者にとって、コーンのこの著書は必読である。ついでに米国の都市の黒人スラム街を何カ所か、一目でいいから、車でサッと通過するだけでもいいから、見ておくことも有益だろう。

車から降りないほうがいいだろう。アパートの階段にまでトイレの汚物が溢れてビタビタになっているが、誰も掃除せず、直そうとせず、修理に来てくれる人もいない。アメリカの恥部である。それがあらゆる都市に存在する。1千万以上の黒人がそういう状況の中に暮らしている。誰もどうしようもなく、解決はない。

「白人優越・有色人種劣等」概念が、伝統的なキリスト教思想の中心に入り込んでいるのは事実である。過去の異文化宣教に当たっては、これが積極的に表面に露出してきた。日本ばかりでなく、アジア・アフリカのすべてにおいて、「キリスト教宣教」とは福音を教えると同時に、「キリスト教文化」を教えることであるということになっていたのも事実である。

コーンは、その点においても大いに我々を啓発するものがある。そうして黒人のエートスが否定されてきたように、日本宣教においても、日本的エートスの否定が福音宣教の重要な一部分となっているのも事実である。それについても、共感を禁じ得ない。このように極めて貴重な示唆と視野を与えてくれる書物である。

ただ、重大な問題を感じる点もある。コーンが西欧的なキリスト教の在り方をすべてまやかしであるとして斥(しりぞ)けている点である。旧約聖書において、イスラエル史が被圧迫からの解放をテーマとしていること、またイエスもいと小さき者の苦しみを顧みることを命じておられることは真実である。

しかしそこから、圧迫を跳ねのけるための闘争を続ける米国黒人教会のみが、唯一の真の教会であるとし、そこに「真理・非真理」の絶対的な指標があるとしているが、それはどうだろうか。コーンによると、啓蒙時代の精神はアメリカ先住民と黒人にとっては悪魔的なものである。またキリスト教神学も現在の秩序を認める限りは、「よくてムダ話、実体は神を冒涜するものにすぎない」と言う。

日本宣教について考えるとき、もちろん、有色人種の文化を下に見るようなキリスト教信仰は日本にふさわしくない。その点では、我々はコーンに同意する。

このように、黒人神学は確かに重要な問題提起をしており、その点における功績は大である。しかし、キリスト教信仰は、いつの時代であっても、その倫理面においては不完全さを持ち続けてきたことを覚えねばならない。黒人がプロテスタント・キリスト教の倫理的欠陥の被害者であって、苦しんできたことは確かである。

黒人の側から見ると、伝統的なキリスト教は、まさに悪魔の教えのように見えることだろう。アジア史の内側からキリスト教国の暴虐と搾取を見ている者にとっても、それに同意せざるを得ないのも当然である。しかし、それらの悪魔的に見えるほどの倫理的な誤謬(ごびゅう)と同居してはいるが、なおキリストの福音は、そこに存在することを主張せねばならない。

コーンの論点には、これらの悪魔的な倫理的弱点の故に伝統的なキリスト教をすべて否定し、自分たち黒人教会以外のものはすべて否定しようとするベクトルが認められる。その上で黒人神学こそ、ただ1つの正しいキリスト教であると主張しているようである。果たしてどうだろうか。

その排他的な態度は、この神学を孤立的にしており、「イエスの名による一致」という命題を成就するところからは遠いように見える。その孤立的な状況と排他的態度によって、黒人神学は極めてローカルな現象になってしまっており、米黒人神学は、米国内のみの現象にとどまっている。黒人神学は宣教学的に極めて重要な問題を提起しているにもかかわらず、必ずしも、世界の宣教学の共通の財産となってはいないようである。

そのような貢献が期待されるところである。その1つの解決は、異文化伝道であろうか。米黒人教会が、アフリカにまた南米に、積極的に異文化宣教を始めたときに、初めて得られるものかもしれない。

アメリカ黒人神学は、まだまだ書籍の形でまとまって表現されているものは多くはない。一般の信徒、牧師、役員、それぞれの個人の草の根レベルの信仰は初めに述べたように、コーンの叙述とは違っているかもしれない。今、コーンのものを紹介したが、これが黒人信仰の代表的なものであるかどうかについては、明確なことは言えないように思う。

そのように思う1つの理由は、コーンが黒人の現状を描写するのに共産主義的な傾向を持つ用語を使用しているところにある。なぜ、それらを使っているのか。使用しないと黒人の状態は表現できないからなのか、それとも彼が唯物論的な傾向を持っているからなのだろうか。小生は黒人神学を系統立って研究しているわけではないので、そのところは把握ができていない。そのような用語の使用の背後にある思想的傾向を「草の根」の一般の信者も共有しているのかどうか、自分には定かでない。

かと言って、このような左傾的な用語を使用せずに黒人神学を語る書籍にはまだ出会ったことがない。自分としては黒人神学を専門にやる余裕はないが、なお日本宣教学にとって大切な分野である。宣教学の立場から、この分野を考究する若い人が出るのを期待したい。

黒人神学や黒人の信仰の系譜について文書化されたものは少ない。柳田国男が『遠野物語』で岩手の民俗を紹介したように、聞き書きで黒人信仰を紹介しているものがあるかとも思うが、そういうのもあまり聞かないようである。

だいたい世界の神学の流れから言っても、黒人神学は傍流、鬼子的な扱いを受けているようである。白人教会の方でも恐れをなして、あまり関わりたくないのかもしれない。それは、やはり双方の責任である。黒人神学者の側にも、努力が求められると思うのである。

黒人教会の礼拝において歌われているゴスペルや霊歌は、多くが屈辱感、寂寥(せきりょう)感に満ち、イエスにあってこそ、いつの日にか自分たちも誇りと自尊心を回復できる、というテーマが多い。それらの歌詞の多くに関する限りは、どうも社会学的な解放のレベルにとどまり、歴史に受肉された主イエスの御業のすべてを、喜びをもって歌うものは少ない、そういう印象もある。

信仰者の交わりは、証しから始まる。それは自分の信仰の喜びの発表であり、自分の戦いと勝利を報告したい、ともに喜びを共有したいという願いの発露である。まず信仰の隣人と喜びを共有しようとするが、やがて、それを越え教派を越える。そのようにより広い連帯を求めるものである。もしかすると、そういう方向性が黒人教会には欠けているかもしれない。

そういうものが、黒人教会には存在しないなどと言えるほど小生に知識があるわけではない。ただ1つ言えることは、そのような交わりは黒人教会とプロテスタント教会の間にはまだ存在していないということである。(先に触れたような、リベラルな側での社会学的な事柄における共闘を除けば)

前述したように、アジア史を宣教学的に見るとき、いったいなぜイエスの愛の宗教がかくも変質したのか、なぜこのような残虐行為が許されたのか、キリスト教がそのような残虐行為のむしろ原動力となったのはなぜだろうか。そのような疑問、いわば喉から血が噴き出るような衝動、また叫びが筆者にあり、それらを抑えることができない。

現在のキリスト教界の指導者たちの多くは、白人も、アジア人も、日本人も自分たちの歴史の現実を知らない。また見ようとしていない人が多い。その結果、キリスト教は愛と平等の教えであり、偶像に満ちた暗黒の世界に光を投じ、これを聖(きよ)める、という公式見解に安住してしまっている。そのような公式発表に背馳(はいち)するような歴史的事実は山ほどあるが、それらは無かったことにしましょう、というのがお互いの間の了解事項かもしれない。とんでもない話で、これではアジア宣教は難しい。

黒人神学の告発とその視点は、非常に貴重である。それは白人中心のキリスト教の伝統が犯してきた罪と、それをいまだに認識しようとせず、見ようとせず、知ろうともしないキリスト教界の態度に対する重大な警告と告発である。

だが前述したように、黒人神学には排他的な傾向があり、抑圧されてきた自分たちだけが唯一の正しい信仰を持っている、と主張しているところがあるのは非常におかしい。この態度は主イエスの「彼らも一つになるためです」(ヨハネ17:22)という願いを拒絶してしまう可能性がある。また「あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」(ルカ9:50)と言われた主の言葉からも遠いのではないか。

弟子たちは、自分たちとは違う集団が、イエスの名を使って奇跡を行っているのを発見して、それを禁止しようとした。主は彼らも仲間であると言われた。

このように、1つのものを指標として真偽を判断する傾向は、キリスト者の交わりを軽視する結果に陥りやすく、失うものは大きく、信仰生活の中心を逸する危険性がある。それはまた、自分たちの信仰について真理の排他的な独占を標榜(ひょうぼう)するという態度と結び付く。これは愚行である。

前にも書いたように、カルヴィン主義が想定した人間像は、現代の人間社会の状況の先取りをしていたところがあり、そのために現代社会の成立に当たって原動力となった面がある。すなわち、民主主義の成立にカルヴィン主義が与えた業績は大きく、両者は切り離せない。

では、日本社会はどうか。日本人の人間像は西欧的なものとは違う。個人ではなくて凝集性が高い。自律性の高い個人ではなく、いつも「何らかの集団のうちの1人」であり、その集団に対する忠誠が問題とされる。だいたい「人間」という名称からして、個人を指していない。「間柄に生きる」者を表現している。だから、日本人はホモ・サピエンスであると同時に、ホモ・レラティオニスとでも言うか、「関係性に生きる人類」である。

そのような日本的な人間像、それより派生する社会像は、カルヴィンは想定していなかったと言っていいだろう。綱要を見ても、人間像についての論議はない。自分たちの存在の様態と自分たちの意識を無条件に措定して論議を進めている。

新しいものとしてはエリクソンの組織神学などでも、人間像の問題はなく、自分が所属する、自分がその一員である西欧社会での個人をためらわずに前提として書いている。日本人、米黒人、米インディアン、アラブ諸国などにおいてキリスト教会の形成がままならないのは、そこに原因があるのではないか。

人間像とは、神に対する信仰の担い手、神の恩恵の受け手の類型である。社会像はその中で教会を形成する場である。旧約聖書は、さまざまな社会類型を提示し、その中にさまざまな価値観、倫理があることを教え、福音はそれらの中で存在することを叙述している。

これらの諸類型は並列して叙述されており、どれかが特に真理性を持っているのではない。ルーテル主義は聖書の社会類型により近いもの(神聖政治・絶対主義王制)を取り入れようとしたと言えよう。改革派はそれをしなかったが、我々が見習うべきなのはその手法であって、改革派が採用した人間像を絶対視することではないのである。

ある時の米誌タイムに日本社会を評して、部族社会の倫理を持つハイテク社会、というような言葉があったが、うまく表現していると思ったことがある。

ここで問題が3つ生じる。1つは、このように信仰とは神と人間の関わり合いであるので、人間像についての考究が組織神学の中に必要なのではないか、ということである。でないと、西欧の神学者がある人間像を想定しているが、日本の読者はそのことに気が付かない。気が付くものは、自分をそれに合わせようとして、ひいては自分の属する文化を否定しようとする方向に向かう。

第二は、西欧的人間像に立脚したのでない教会論が書かれねばならないということである。これはその社会の中での教会形成の実践とともに行われるのだろう。

第三は、宗教改革はソラ・スクリプチュラ(聖書のみ)の原則を標榜してきたが、実は人間像認識の前提がまずあり、その枠内で聖書が論じられてきた。

宗教改革のこの標語に眩惑(げんわく)されると、ただ聖書のみで、文化的な前提などなしに教会形成をしていると思ってしまう。そうすると、自然に西欧的な自律的人間像を絶対的なものとしていることになる。これは1つの自然神学ではないか。これを解決する必要があるように思う。

20年ほど前に1つの神学校の創設に当たり、カリキュラムに全聖書の講義を入れた。また組織神学の時間は減らして、通常の2割程度にした。聖書の学校であり、神学の学校ではないことを目標とした。ギリシャ的な哲学と存在論、認識の方法に準拠した組織神学を教えるのではなく、聖書が現代に何を示そうとしているかを追究しようとした。

自分たちの置かれた状況の中で、聖霊の導きを受けながら聖書の指針によって進む。類似の状況に通底するものを見つけていく。そうやって今の私たちの神学を建設していく。まだるっこしい作業であるが、それよりない。

今の日本のキリスト教学には、天理教の分析、金光教の研究、オウム真理教の分析、創価学会の研究、修験道の観察などはない。もしそれをやれば、神学の本流でない、なにかキワモノをやっているように、一段下に見られる。学者が真面目に取り上げるべき対象ではないように見られている(森岡清美は貴重な例外である)。仮にボンヘッファーをやれば、その方がまともな研究をやっていると思ってもらえるだろう。これはどう見てもおかしい。

理由は何か。それは日本の教会の思想的な骨格が西欧発の神学で構成されているからで、自分たちを取り巻く周囲の宗教的状況を観察し、分析するための道具がなく、態勢が整っておらず、意識がない。せいぜい、あれは低級な現象であるとして無視するのみである。そのレベルで福音をもって対決することは考えてみない。足元を見ようとしてはいないのである。

学者は西欧での論争をいち早く紹介するのに忙しく、それこそが本流であると思っている。日本社会で起こっていることなど、キリスト教世界の周辺の事柄であり、エネルギーを費やす価値はないと考えているのである。旧約聖書を読めば、預言者はまさにそのところで社会と対決していることが分かる。日本社会の中でキリスト教が浮き上がっている、または、たまには知的な趣味のレベル以上の力がないように見られている一因はそこにあるのではないか。

こうして日本のキリスト教会は、いまや絶滅危惧種の1つとなっている。

なお、ここに書く必要はまったくないと思うのであるが、念のために付け加えておきたいことがある。それは、このような論述に対して「日本もひどいことをやったではないか。アイヌ民族に対して、韓国に対して、中国に対して残虐なことをやったではないか」というような反論がしばしば出てくるということである。これは宣教学を論じていることを忘れてしまった態度である。日本の偶像教文化とキリスト教文化とを同じレベルに置いて、どちらがよりヒドかったかを論じていることにもなる。

ここに述べていることの中心点は、キリスト教の生んだ残虐行為が宣教のつまずきとなっていること、またそれに留まらず、根はもっと深く、伝統的なキリスト教思想のただ中にその原因があるのではないか、ということである。ひいては、それは福音宣教とは何なのかということの探究である。そうしてこの種の追究は、従前のキリスト教学、また宣教学において等閑に付されてきたように思う。

もちろん、筆者の論調が日本弁護と受け取られる形に走りやすく、そのような印象を与えているのかもしれない。反省しつつ書いているつもりである。まったく不必要なことかもしれないが、ひと言付け加えておく次第である。

前半を終わるに当たって、主張したいことがある。それは、我々が今まで受けてきた信仰の系譜の中に、そのような人種差別、文化的な差別のDNAが残っているのではないか、またそのようなDNAが日本社会を見下すクリスチャンの態度を形作っているのではないか、ということである。

そうして、それを自分自身の中に探るのが求められていると思うのである。そのことは、日本宣教を論じるに当たって非常に重要な部分ではないかと思う。

前半には、善良なクリスチャンの読者の方には、ショックを与えるような内容が多々あったかもしれない。しかし、現在と過去の現実を把握しないでは、日本宣教を真剣に考えることはできないのである。

(後藤牧人著『日本宣教論』より)

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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)

後藤牧人著『日本宣教論』

日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。

(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)

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後藤牧人

後藤牧人(ごとう・まきと)

1933年、東京生まれ。井深記念塾ユーアイチャペル説教者を経て、町田ゴスペル・チャペル牧師。日本キリスト神学校卒、青山学院大学・神学修士(旧約学)、米フィラデルフィア・ウェストミンスター神学校ThM(新約学)。町田聖書キリスト教会牧師、アジアキリスト教コミュニケーション大学院(シンガポール)教授、聖光学院高等学校校長(福島県、キリスト教主義私立高校)などを経て現職。

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