キリシタンへの夢とロマンは不要か? キリシタン研究の第一人者が突きつける「現実」と「フィクション」の乖離(かいり)
本書の著者、宮崎賢太郎氏は長崎県で長年「隠れキリシタン」を研究してきた第一人者である。第1章に厳密な用語解説があり、明治期の「キリスト教禁令の取り下げ」(1873年)前後で「隠れキリシタン」と呼ばれる集団の呼び名が異なることや、その後にカトリックへ復帰した者とそうでない者を分けて称するなど、専門的な説明が続く。しかしこれがまったく難しくない。
「難しい話を分かりやすく語れるのがプロ」とはよく言ったもので、本書の構成は見事にこのプロ意識を感じられるものとなっている。
だが、本書最大の肝はその用語解説ではない。歴史的事実と文化的継承との乖離、そのズレをどのように解決していけばよいのか。その「古くて新しい問い」に対し、真摯(しんし)に向き合う宮崎氏の軌跡がつづられているのが、まさに本書を薦める理由と言っていいだろう。
ご存じのように「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、ユネスコの世界遺産への登録がほぼ承認され、今年6月末から7月頭に開催される世界遺産委員会からの吉報を待つばかりとなっている。宮崎氏によると、その中心には「潜伏キリシタンは幕府の厳しい弾圧にも耐え、仏教を隠れ蓑(みの)として命がけで信仰を守り通した」という考え方がある。これが遺産登録運動のキャッチコピーであると同時に、クリスチャンの間でも自身の信仰を強め、守り通すための励みとして用いられている。
だが、これが歴史的事実ではなく、そう思いたい人々によってある種「作り上げられた」物語であることを著者は丹念にたどっていく。
第2章で、今までの宗教(仏教)を捨て、キリスト教(カトリック)へ「改宗する」とは、実際にはどういうことを意味していたのかを明らかにしている。まず庶民レベルでは、海外から来た宣教師の言葉がよく分からない。意思の疎通もままならない状況で「三位一体」とか「十字架による贖(あがな)い」などという抽象性の高い概念が果たしてきちんと伝えられたのだろうか。
各地方大名でキリスト教を受け入れた者たちは、南蛮貿易を通して利を得ることを目指し、キリスト教へ改宗したという説は一般的である。日本では見られない先端技術や芸術品を自分たちのものにすることができるため、宣教師たちを優遇したという有名な話である。中には高山右近のような例外もあるが、これも精査するなら果たして「信仰のみ」という純粋な動機で流刑処分に甘んじたのかどうか、議論が分かれるところである。
いずれにせよ、これらは「歴史」に常に付きまとう両側面である。「史的事実」を追求し、従来の歴史的事実の誤りを正そうとするベクトルが一つ。一方で「史的事実」にも探究者の隠された偏見(私的心情や文化的前提)がすでに盛り込まれており、これはどこまでいっても拭い去れないものだから、むしろ出来事を各々の文脈に沿って理解・解釈することを肯定的に受け入れるべきではないか、というベクトルが一つ。
この議論は「鶏が先か、卵が先か」に相当する、答え無き「無限ループ」の1つである。そう、ドラえもんのタイムマシーンでもない限り、この問いに対する究極の答えは見いだせないのだ。
その観点から言うと、本書は後者(夢・ロマン)へ大きく傾こうとする世論を前に「少し冷静に『事実』を振り返ってみよう」という学的探究者の真摯な問い掛けであることが分かる。
言葉も文化様式も異なる司祭(パードレ)から、果たして本当に「真正なキリスト教」を受け取ることができたのか。またキリスト教禁制下において、彼らはその「教え」を自覚的に後の者たちへ伝えることができたのか。そういった問いは、当然検証されるべきものであろう。
だが著者は、だからと言ってこれで人々の「夢・ロマン」が打ち壊されるわけではないと語り、本書を語り終える。そこに私はホッとする着地点を見いだした。
歴史の両側面は、確かに存在するがこれらはどこまでいっても「コインの裏表」であって、この議論がついえることはない。そうであるなら「両側面がありますよ」と素直に認め、そのただ中に留まり続けることこそ、真摯な学者、そして信仰者の姿ではないだろうか。
これによく似た問いが「聖書」をめぐるプロテスタント内の議論である。「聖書は一点一画まで変わらない神の言葉である」と受け止めるキリスト教保守派(福音派)と、「聖書は信仰者の告白の書であって、歴史的事実のみが描かれているのではない」とするリベラルの争いがそれである。1890年代から巻き起こったこの争いは、いまだにプロテスタントの両翼として、現代にも大きな影響を与え続けている。
そういった意味で「隠れキリシタン」をめぐる議論が、本書によってより深められるとするなら、それは宮崎氏の願うところであろうし、ユネスコに「潜伏キリシタンは幕府の厳しい弾圧にも耐え、仏教を隠れ蓑として命がけで信仰を守り通した」歴史的遺産として認められたとしても、おそらく彼は喜びを感じるであろう。
私もそのようなキリスト教信仰をいつまでも持ち続けたい。コインの一側面しか見たことがなく、また「裏面は絶対に見てはならない」と言われるなら、かえってそちらを見てしまいたくなるのが人間だ。だからあくまでも両側面があることを念頭に、これからも信仰者として、学者として歩み続けたい。そう思わされる刺激を与えてくれた1冊である。
■ 宮崎賢太郎著『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(角川書店、2018年2月)
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