私たちは暗やみの子ではなく、イエス様の愛、御光に照らされた真昼の子である。この世界からにじみ渡る暗がりは、時に私たちの心にも忍び寄り、心は陰り、泣きたくなるような悲しみも襲う。
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。(ローマ8:18)
人生は時に過酷でもあり、主の手につかまりながら、嵐の中、翻弄されることもあり得るが、私たちは主の復活を知る者であり、主の御光の下を歩きながら永遠の命を生きる者である。
先日、夫の病の2年目の検診があった。検診の数日前まで心は不安に覆われ、泣く日もあった。当日の朝、車に乗り、病院に向かった。途中、坂の上にある夫のお見舞いのたびに見ていた桜の木は葉を茂らせ、春に向けて花を咲かせる準備をしていた。私はふと、聖歌691番「風は荒れ狂う」を口ずさんだ。
風は荒れ狂う 悪魔のごとく
小舟は海中わだなかの 木の葉に似たり
今にも溺れゆく われらが身を
知らでか熟寝うまいなす 師よ我が君よ御声と共に海は なぎぬ
風に荒るる海も 苦しみもがく胸も
よろずのものを御手に 治めたもう主なれば
静め得ざることは 絶えてあらじ
ことごとく御旨に 従わん
繰り返し、歌った。ハンドルを握る夫も共に歌った。ふと夫を見ると、その目の淵に涙が伝っていた。全て主の御手のうちにある。私たちはその御手に全てを治められている大いなるお方の御心の中にいるのだ。
心に平安が広がっていった。健診の結果は、順調な回復とのことであった。
結婚とは大変なことだ。新婚1、2年の頃は、何をするにも心浮かれて幸せなものであったが、結婚によって関わる人も増え、責任も増す。
ひとり身だった頃を懐かしく思うこともある。私がもし病気になろうと自分のことは自分で何とかすればいいと思っていた。今よりもっと、小さな関わりの中で生きていた。しかし、今はそうはいかない。心配してくれる家族をはじめ、たくさんの人との関わりと責任の中にいる。それをおっくうに思うこともあるが、大きな恵みである。
生きていれば、時に人生は嵐の様相を呈することもある。しかし、夫の病をはじめとする病は、大きな恵みをともに与えてくれた。輝いていた。たくさん泣いた。たくさん喜んだ。……夫のかけがえのなさを知り……イエス様にしがみついた。
御声と共に海は なぎぬ
風に荒るる海も 苦しみもがく胸も
よろずのものを御手に 治めたもう主なれば
静め得ざることは 絶えてあらじ
ことごとく御旨に 従わん
庭では、大切に植え育てたすみれや野菊、撫子(なでしこ)にシクラメンが色とりどりの花をつけ始めた。ポインセチアも美しい葉を茂らせ、まだ少し、花房を残している。れんがを積み、小さな私のガーデンを作っている。蜂や蝶々(ちょうちょ)のお客さんも時に訪ねてくれる。小さな庭は私の心の一部屋のような世界である。
イエス様、あなた様がどれほどにこの小さな家庭のそばで、守っていてくださったことでしょうか。あなた様は本当に、共におられる神様でした。これからも、あなた様はさまざまな道のりを与えるでしょう。しかし、共にあってくださるあなた様の手をつかんでまいります。
感謝します。そして全ての人、特に窮乏や苦しみの中にある人たちのそばで、その御顔を現し、この世界をいつか真昼としてください。
イエス様の十字架の下に今日も……「主よ、来たりませ、アーメン」。(おわり)
(絵・文 星野ひかり)
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