コヘレト書を読む(10)「生の楽しみ」―ふさわしい分― 臼田宣弘

2018年11月1日11時18分 コラムニスト : 臼田宣弘 印刷
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牧会する教会で10月27日(土)に行われたバザーに集中するため、コラムを1回お休みさせていただきました。この間、コヘレトの学びからは少し遠ざかっていましたが、前回お話させていただいたことで、一つ見いだしたことがありました。前回は、「ハーオーラーム」というヘブライ語について、次のようにお伝えしていました。

11節の、ヘブライ語原語のまま記した「ハーオーラーム / הָעֹלָם」を、新共同訳は「永遠」と翻訳し、「(神は)永遠を思う心を人に与えられる」としています。他の日本語訳聖書もだいたい同じです(ただし岩波書店版月本昭男訳は「永遠性」)。しかし私は、人の心に与えられる「ハーオーラーム」とは、太陽の下での始めから終わりまでを示す「無限」と翻訳すべきであると考えています。

「ハーオーラーム」とは、永遠を意味する「オーラーム / עוֹלָם」に、定冠詞「ハ / הַ」が付いたものです。この「ハーオーラーム」を含む11節を、バルバロ訳という翻訳聖書(『伝道者のことば』)は、「神のなさることはすべて時に適っている。神は人の心に、時をすべて見渡せる力を与えられた。だが人間は神のなさることの始終を知ることはできない」と訳しています。この「時をすべて見渡せる力」というのが、当該箇所の意味するところではないかと思います。この世の時のすべてを知る力ということです。お休みさせていただいていた間にこの翻訳を見いだし、とてもしっくりする思いでした。

さて、今回は3章18節~4章3節を読んでいきましょう。

18 人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。19 人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、20 すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。21 人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。

22 人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。

死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。4:1 わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。2 既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。3 いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。(3:18~4:3、新共同訳)

第2回でお伝えしましたが、コヘレト書は、全体が修辞法の一つである「インクルージオ(囲い込み)」によって構成されています。これは大きなインクルージオといえると思いますが、私はコヘレト書の中には小さなインクルージオが多数存在していると考えています。ある部分の両サイドを、同じような内容でサンドイッチしているのです。そうすることによって、サンドイッチされている部分を際立たせているように思えます。

3章18節~4章3節も、実はそういう構造ではないかとみています。サンドイッチされている部分は、「生の楽しみ」について語っている3章22節前半であり、サンドイッチしている部分は、「死を通して教えられること」について語っている、3章18節~21節と22節後半~4章3節ではないかと考えています。「死」に関することでサンドイッチすることにより、「生」を浮かび上がらせているのです。

コヘレトは、「死を通して教えられること」を、2章16節ですでに「賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか」と書いています。また、7章と12章でも、死から学び取れることについて書いています。今回のサンドイッチの外側部分の「死を通して教えられること」についても、「人間の死は動物の死と何が違うのか」と問うたり、「死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう」「既に死んだ人を、幸いだと言おう」と述べたりして、死を美化するのではなく、あるいは死を悲観するのでもなく、冷静に死から何かを学ぼうとしているように思えます。死から何かを学び取ろうとする姿勢は、コヘレト書全編を通して貫かれていることになりますので、今後さらに見てまいりたいと思います。

このように、サンドイッチの両側において「死」を語ることにより、サンドイッチの内側部分の「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である」という、「生の楽しみ」を浮かび上がらせているように思えます。コヘレトによると、「生の楽しみ」とは「自分の業によって楽しみを得ること」であるようです。今までコヘレト書を読んできたことから理解するなら、それは「飲んで食べ、自分の労苦によって魂を満足させること」(2:24、3:12~13)でありましょう。

コヘレトは最後に、「それが人間にふさわしい分である」と言います。ここで「ふさわしい分」と翻訳されているヘブライ語は「ヘレク / חֵלֶק」です。このヘレクという言葉も、コヘレト書に特有な言葉です。ヘブライ語辞典でこの言葉を引いてみますと、「分配、分け前、割り当て、取り分」とあります。自分だけでなく、他の人と共に得ることを意味する言葉です。食べて飲むということを「自分自身で」味わうことが大切だとコヘレトは説きます(2:25)。しかし、自分だけで独り占めしてはいけないのです。

私は、コヘレトが「太陽の下の出来事」における空しさの「外側のこと」として大切にしていることは、3つあると考えています。そのうちの1つは、「食べて飲むことを神様からのプレゼントとして受け取る」ということが、すでに明らかになっています。しかしそのプレゼントは、あくまで他者と共に「ふさわしい分」として受け取るということなのです。このことから、コヘレトが大切にしている2番目のことへと、話は進んでいくのです。(続く)

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臼田宣弘

臼田宣弘(うすだ・のぶひろ)

1961年栃木県鹿沼市生まれ。80年に日本基督教団小石川白山教会(東京都文京区)で受洗。92年に日本聖書神学校を卒業後、三重、東京、新潟、愛知の各都県で牧会。日本基督教団正教師。2016年より同教団世真留(せまる)教会(愛知県知多市)牧師。愛知牧師バンドのメンバー(キーボード担当)

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