私の実践的メディア論 宮村武夫

2015年7月30日14時26分 執筆者 : 宮村武夫 印刷
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「私の実践的メディア論」(『月刊ハーザー』2015年8月号より)

以下は、『月刊ハーザー』2015年8月号に掲載された拙稿です。クリスチャントゥデイは、小さなメディアとして使命を与えられ、それに応答する喜びをスタッフ一同経験しています。その中で、私たちのできないことを自覚し、私たちでもできることを感謝しています。ですから、主にある信頼関係の中で、今回のような他のメディアとの協力は、とても感謝なことです。(宮村武夫)

私の実践的メディア論
―説教者であり、同時にクリスチャントゥデイ編集長として―

感謝いたします。今回、貴誌のスケールの大きな企画の中で、説教者であり、同時にクリスチャントゥデイ編集長として個人的な体験に基づき、実戦的メディア論を書く依頼を受け、身に余る光栄です。

個人的な体験の記述を通し、体験から普遍的な経験へと深められ、私なりの実践的メディア論を提示できればうれしいです。体験から経験への深まりをご指摘くださった森有正先生への、私なりの小さな応答の一つとなれば幸いです。

2006年4月、思いがけない経過で地域教会の牧会から退き、会堂・牧師館からも離れる制約の中で関東に戻り、なお宣教を継続していく上で、小さなパソコンと印刷機がとても大きな助けとなりました。

関東へ戻ってからの歩みの中で、沖縄時代のパソコンを用いての文章作成やメールの活用に加え、思いを越えてブログやフェイスブックの活用へと導かれました。

さらには、2013年4月3日のユーチューブによる動画童謡説教を、洗礼準備会を通して出会ったY兄の一年がかりの熱心な勧めで開始したのです。毎日5分前後の童謡と聖書の重ね読みによる福音宣教、江戸いろはかるたを切り口とする福音の提示、さらに箴言や詩篇の連続講解説教などを今日まで毎日続けてきました。

こうした組織や予算の欠如の中で、なお福音宣教が可能である事実に励まされていたころ、母校・開成高校の聖書研究会での出会い以来、主にある交わりと指導を頂いてきた堀内顕先生から、クリスチャントゥデイの矢田喬大社長が紹介されました。

幾つかの制約の中で、インターネットによる働きについて矢田兄と相互理解を一歩一歩深め、ついに年来のモットーと基本的な態度を軸に、クリスチャントゥデイの働きに参加する覚悟をなすに至ったのです。

比較的短時間に明確な導きを感じつつ覚悟をなす中で、年来の素朴なモットーを、なお一層強く心に刻みました。

(1)あることをないかのようにではなく
(2)ないことをあるかのようにではなく

「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』」(マタイ5章37節)。事実と言葉の一致、言葉の真実を求めたいとの覚悟です。

最初の半年の日々の間に、エステル記4章14節「この時のためである」は、今までの歩みを振り返って、心の奥底から深いうなずきとなりました。

1958年、日本クリスチャン・カッレジの1年生の秋に、カナダとアメリカからの2人の婦人宣教師の祈りと愛の支援を受け、埼玉県寄居の開拓教会で講解説教を開始。それ以来、全ての学びは説教者としての整えのためと理解してきました。

また、神学教育の場などで語ってきたこと、さらにさまざまな機会や方法で執筆してきた全ては、教会の講壇から宣べ伝えた説教を基盤とする説教者の言葉と深く自覚しています。

そして説教者とは、神の恵みの事実・出来事(詩篇119篇64節)を記録する聖書の言葉・事実を、今、この場の事実として宣言する役割を担う者です。ですから、説教者は徹頭徹尾事実に根差し、言葉に生きる者です。事実から離れて生きられず、言葉なしには存在できないのです。75歳まで説教者として、「事実と言葉」に基づき生かされてきた全ては、クリスチャントゥデイ編集長として役割を担う「この時のためである」と受け止めるのです。

今その逆の経験もしております。クリスチャントゥデイ編集長として日々歩む営みは、まさに「事実と言葉」に基づきます。この経験は、説教者人生の最後の日々を生き抜くために、いかに助けとなるかを実証したく願っています。

クリスチャントゥデイの日々の報道と論説は、その多様な展開を貫いて、「事実と言葉」の一点に統一性を持ち、現代日本において聖書に宣言されている神の恵みの事実を、今ここでの私たちへの恵みとして宣べ伝える説教と、生きた関係を持ちます。

聖書とは何か、聖書に何が書いてあるのか。この基本的な問いに、「初めに神が天地を創造された」(創世記1:1)に始まる神の創造の事実、つまり「主よ。地はあなたの恵みに満ちています」(詩篇119:94)とあるように、神の恵みの事実を人間の理解できる言葉で書き記していると答えたい。さらに、その恵みを伝える言葉が宣べ伝えられ、聞く者の心と生活、生涯に受け入れられる時、新たな恵みの出来事が生まれるのです。事実→言葉→出来事の連鎖、恵みの連鎖です。

以上の聖書に見る事実→言葉→出来事の恵みの連鎖が、インターネット新聞の営みのただ中でも生じていると認識します。

インターネット新聞の営みは、あくまでも事実・出来事に根差します。事実・出来事の下に己を置いて取材に徹し、その取材に基づき、言葉・文章をつむぐのです。その言葉が、事実に基づく生きた言葉であるならば、読者の心と生活に新たな出来事を生み出す。このような生きた言葉を記すためには、記者自身が恵みの事実に生かされている必要があるのは当然です。

1955年3月22日、聖書を初めて読み、キリスト信仰へ導かれて以来、記憶と記録は一貫して私の課題です。クリスチャントゥデイの働きに直接参与するようになり、記憶についてますます思い巡らすことが多くなりました。また記録は、まさに日々の報道において日常的に直面している営みです。その柱は、徹底的な聖霊(ご自身)信仰と徹底的な聖書信仰です。

記憶について、初めて自覚的に思索したのは、1958年日本クリスチャン・カレッジ1年生のとき、心理学のレポート「ヨハネによる福音書14章26節の理解」(宮村武夫著作1『愛の業としての説教』214頁以下)を書いた際です。

その後留学中、ヨハネ14章26節について、ゴードン神学院やハーバートでも思索を重ね、その結果を直接、間接に記述する機会がありました。

さらに帰国後、上智でも思索を継続し、「ヨハネの福音書15章26〜27節の一考察―『あかし』、『記憶』及び主の晩餐との結びを中心として―」(宮村武夫著作5『神から人へ・人から神へ』)をまとめました。思索を重ねた内容の要点は、以下の通りです。

記銘:初めに聞いた時に心に刻まれる(put in)事態
保持:記銘されたものが、想起(再生)されるまで、無意識・潜在的に保たれている事態
想起(再生):記銘され保持されていたことが、現時点で再生され思い起こされる(out put)事態

単に、必要な時に、聖霊ご自身の導きにより、思い起こすだけではない。記銘の時点で、意識すると否にかかわりなく、聖霊ご自身が導いてくださり記銘がなされています。何よりも驚くべきは、聖霊ご自身が潜在意識の奥深く、保持の業を静かになし続けてくださいます。

記事や論考を書く各自、それを読む読者の一人ひとりの内面深く、聖霊ご自身が記憶の御業をなし続けてくださっている。その恵みの事実がクリスチャントゥデイを成り立たせています。

記憶と記録をめぐる私なりの思索の旅において、一つの節目になったのは、2009年12月18日(金)の脳梗塞の発症と、その後約3カ月にわたる沖縄・大浜第一病院での入院生活です。

ほとんどの病室が個室である恵まれた状況であったため、日本クリスチャン・カレッヂで3年先輩の宮谷宣史先生による新しい訳で、アウグスティヌスの『告白録』(教文館、上・1993年、下・2007年)を読み始め、宮谷先生の入魂の新訳と明快な註に導かれ読み進めたのです。この事実の波及として、その後同書第10巻の記憶の問題を精読しました。

そこには、聖書をメガネに、以下の項目を取り扱う、深い豊かな考察がなされています。

記憶の力と記憶の仕方
学芸に関する記憶
数の記憶
感情の記憶
記憶と忘却
記憶と想起
記憶と幸福な生活
記憶と神

この優れた手引きで、記憶の重要性を三重の関係であらためて確認しました。

(1)神と私との関係における記憶の役割
(2)人と私の関係における記憶の役割
(3)私と私の関係における記憶の役割

この三重の関係いずれにおいても記憶の決定的重要な役割は、聖霊ご自身の働きによると深く確認するのです。そうです。聖霊ご自身の人間存在の深み・潜在意識に及ぶ導きを軽視、ましてや無視して、記憶を正しく、深く、豊かに把握できないと覚えます。

また記憶を直視することなくして、聖霊ご自身についての生き生きとした理解も困難です。確かに、脳梗塞の発症とその後約3カ月の入院は、記憶と記録をめぐる思索の旅において、一つの節目でした。

記録され、書き記された神の言葉としての聖書の特徴、またその聖書をメガネに見る営みを考える場合、出エジプト記24章1〜8節が、基本となり重要な示唆を与えてくれます。

主なる神と民の関係の基本は、主なる神が語り、民が応答する呼応関係です。しかし、語られ、聞かれる記憶の働きを中核とする結び付きだけではなく、語られた主の言葉が書きしるし、記録され、その記録された言葉・聖書が、神と民の交わりの絆の役割を果たすのです。

記録された言葉は、単に語られた言葉に比較し、幾つか注目すべき特徴があります。

① 確実性
私たちの日常生活でも、消えていく声・口約束に対比し、約束や契約を確実なものとするため、記録し文章として残します。

② 公同性
耳元にささやかれる秘伝ではなく、誰でも読む人の前に明らかにされ、公開されています。

③ 永続性
一度語られ聞かれるだけでなく、継続的に繰り返し読まれるため保持されるのです。

④ 伝達性
語られる場に居合わせた人々だけでなく、記録されたものが伝達され、記録されたメッセージが広く伝達されます。

以上の特徴を持つ記録された言葉が読まれ、朗読されることにより、今、ここで語り聞く呼応関係が生き生きと展開されます。まさに聖霊ご自身の導きによる説教です。

聖書をメガネに、記憶と記録の両面とその相互関係を考察してきました。そこで今、その考察から見えてきたものを手掛かりに、インターネット新聞、具体的には、クリスチャントゥデイに対する期待を2、3記します。

まずインターネット新聞は、豊かな内実を持つ、聖霊ご自身の賜物としての記憶をしっかり受け止める器である事実を留意したいのです。

個人の死と共に、膨大な量の記憶が消え去るのに対して、インターネット新聞では、個人の死を越えて記憶が保持され、活用され続けます。どれほど記憶が素晴らしいといえ、なお記憶が持たない記録の優れた特徴に私たちは注目してきました。

ところが、インターネット新聞は記憶を即刻文字にできるため、記憶でありつつ同時に記録でもあり、記憶と記録の特徴を併せ持つのです。

しかもインターネット新聞は、個人がパソコンに打ち込む徹底的に個人的な作業を基盤にしつつ、一つの会社における多数の人々が共有し、共に活用できる懐の深い器です。さらに読者も同様に、記憶と記録を各自のパソコンの作業を通して共有できるのですから、広がりはさらに大きくなります。

情報社会のただ中で、資本と組織の大きさが全てを左右し、決定するかに見えるゴリアテ的世界の中で、なおインターネット新聞を少年ダビデの手にある小石と見、Ⅰサムエル記17章を再読したいのです。

クリスチャントゥデイが拠って立つ聖書。聖書の神は、父・御子・御霊なる三位一体の生けるお方で、愛の対話の源なるお方です。三位一体なる生けるお方の愛の対話のほとばしりは、神から人への呼び掛け、人から神への応答となり、聖書全体を貫き証しされています。この神の言葉である聖書が書き記されていく過程において、聖書記者と最初の読み手の間に対話が展開しています。

その聖書を各時代で宣べ伝える説教者と聴衆の間にも新たな対話が生まれ、展開してきました。

その恵みの歴史に立ち、聖霊ご自身に導かれながら、今、ここでクリスチャントゥデイの記者やコラムニストと読者の間にも現に、対話が波紋のように静かに、確かに広がって
います。

「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ12:15)

『月刊ハーザー』2015年8月号より転載)

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