神様は私たちに、絶えず喜んでいてほしいと願っておられる。それはしっかりと聖書に書かれてある。
しかし、私たちクリスチャンにとって、その御言葉に応えることは難しいことである。なぜなら、この世にはあらゆる困難があふれている。挫折や失望、迫害、愛の喪失に、心は絶えず悲鳴を上げているのではなかろうか。神様は、そのような人生であることをご存じだからこそ、神様のご臨在だけはしっかりと喜びとしているよう、命じておられるように思うのだ。
この世で苦しみから逃れるすべは多数にある。目をそらし、心を殺し、また小さな快楽に溺れながら、私たちはこの世の苦しみから逃れることもできよう。しかし、私たちが真に喜びを得られるのは、神様を感じることによってしかないことをクリスチャンは知っている。
心の呻きを神様にささげるとき、心は絞られ、かぐわしい香のようにたき上がる祈りとなる。それは私たちの生きたいけにえのごとく肉を絞り、天に上り・・・そんな祈りを神様は必ず聞いてくださる。そして、私たちの祈りを聞かれる神様の喜びこそが私たちの喜びともなり、生きる道しるべとなり得るのだ。それが祈りの喜びであり、神様と交わる愛の一点であろう。
私は統合失調症という障害を持っており、夫にどんなに尽くそうとしても、限界ばかりがある。最低限の家事はできるが、働きに出ることもできず、ベッドに横になっている時間のいかに長く、夫に甘えてばかりいることか。起き上がろうとしても起き上がれないだるさの中で、イエス様の御栄えを現す仕事がしたいと呻くときに、温かい毛布がイエス様の御手のように、しっかり休んでいなさいと、私を寝かしつけてくださるのだ。
今日も夫を朝の6時に駅まで見送りに行き、その後は家事もできずに休み休み過ごしている。朝食もろくに作れないので、夫はトーストを自分で焼いて食べ、仕事に出るのだが、力こぶを作って「いってきます」とほほ笑んでくれる。そして、ゆっくりと休み、幸せであるよう、私に命じてくれる。イエス様の愛を現すような優しい夫は、いつも私を「十分だよ」と褒めてくれる。
夫の愛はイエス様の愛のようであり、私も夫のようにイエス様の御栄えを現す優しい者になりたいと呻くばかりだ。教会にもろくに通うことのできない身であり、それであってもイエス様は、私の言葉にならぬ呻きを絶えず聞いてくださっている。「もっとお役に立ちたい」と願う心を抱いてくださり、「十分だ、十分だ」と言ってくださる。
喜びとは、イエス様のうちにあり、祈りのうちにある。「絶えず喜んでいなさい」と、私の幸せを願いたるイエス様の御心を知るばかりである。
(絵・文 星野ひかり)
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星野ひかり(ほしの・ひかり)
千葉県在住。2013年、友人の導きで信仰を持つ。2018年4月1日イースターにバプテスマを受け、バプテスト教会に通っている。
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