「『あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな』。それは、キリストを引き降ろすことである。また、『だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな』。それは、キリストを死人の中から引き上げることである」(ローマ10:6、7)
イエス様のうちにある者、キリスト者こそが天の御国を受け継ぐことを聖書は明らかにしている。だからこそ、私たちは周囲の人たちへ伝道することを熱望しながら歩んでいる。
なかなか満足のいく伝道はできないが故に、心はうめき苦しむ。聖書を読み聞かせたり、教会に誘ったりすることよりも黙々とクリスチャンとしての生き方を示す方が伝道のきっかけになると思うことも多い。
伝道は迫害の中で困難も多く、信仰の炎を他者に分けることは難しいことである。しかし上記の聖書箇所にあるように、私たちに、天に上る人と底知れぬ所に下る人とを判別する力などなく、また判別すべきでもない。でき得る限りの力で、それぞれに伝道の道を生きる他はないのだろう。
私たちは全地に福音を告げ知らせるように召されている。決して教会生活をむさぼるばかりであってはならず、この恵みを継承するための働きに一人一人が召されている。
私は師と慕う牧師先生から「そもそもカウンセリング」という教えを受けた。当時、私は軽いセルフネグレクトに陥っていた。なぜ食べなければならないのか、着替えなければならないのか、お風呂に入らなければならないのか。そんなことさえも分からない無力な状態にあった。
そんな私に牧師先生は「そもそもカウンセリング」を教えてくださった。それは歯を磨くことさえ「そもそも主のために」、ご飯を食べることも「そもそも主のために」、どんなささいな事柄も「そもそも主のために」行い生きるのだという教えであった。主のためではないことはあってはならず、例えば携帯電話を持つことさえも主のためでなければ持つべきではないと教えられた。
自分のために何をむさぼっても満足できず、消化不良で憤ってばかりのクリスチャン生活を送っていた私には生き方を変えるだけの力ある教えであった。
主に召されながらも、主に自身を聖別してささげられない生き方は、本当に苦しいものである。多くのクリスチャンがそのような消化不良や憤りを抱えながら、信仰の中でもがいているのではあるまいか。
しかし私たちは、主のために全ての器官を聖別し、ささげて生きることにしか、喜びを見いだせないはずだ。なぜなら、初めに信仰を与えられたとき、主を愛して従いたいとする決心とは、そのようなものであったからだ。
全焼のいけにえのごとくに自身をささげ、一つの魂を救うことのあまりの大きさを忘れずに(その時には天で大きな喜びが起こると書かれてある)、伝道の道を歩みたいものである。どんな人に対しても熱心に燃えながらイエス様を伝え、その人が真の命を獲得することを祈りながら、歩みたいものである。
(絵・文 星野ひかり)
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星野ひかり(ほしの・ひかり)
千葉県在住。2013年、友人の導きで信仰を持つ。2018年4月1日イースターにバプテスマを受け、バプテスト教会に通っている。
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