日々是ハレルヤ(15)求めても与えられません、たたいても開かれません 横坂剛比古

2018年1月22日07時27分 コラムニスト : 横坂剛比古 印刷
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主の御名をあがめます。

マロです。1月ともなると冬の寒さもいよいよ本番ですよね。温かいツミレ鍋でも食べたいんですが、実は数年前からアレルギーでイワシが食べられないんです。残念です。さてさて、今日もゆるゆるまいります。

聖書の中にはノンクリスチャンの方にも親しまれている聖句が幾つもありますが、その中でもこの聖句は特に親しまれ、もはや「座右の銘」にしている人さえ少なくないのではないでしょうか。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタイ7:7、新改訳)

僕の行っていた中学校はミッション系でも何でもない、ごく普通の公立中学校でしたが、この聖句が教訓として廊下に掲げてあったのを今でも覚えています。

しかし、この聖句は世の中では、本来とはずいぶんかけ離れた意味で広まってしまっているように思います。

多くの人はこの聖句を「夢は諦めなければかなう」のような意味で解釈しています。が、聖書がこの聖句によって教えているのはそういうことではありません。よくよく注意して読んでみると、求めれば与えられるとは書いてありますが、「何が」与えられるかは書いてありませんし、まして「求めたものが」与えられるとも書いてありません。「見つかります」も「開かれます」も、「何が」ということは書いてありません。

例えば、子どもはよくお菓子をおねだりしますが、両親は必ずしもその子が望むお菓子を与えるとは限りません。その子の栄養状態のことを考えて、その時にふさわしい食べ物を与えるか、あるいは「もうすぐ夕ご飯だから」と、何も与えずに我慢させるかもしれません。子どもの求めるがままにお菓子を与える両親と、その子に本当に必要なものを与える両親、どちらがその子を正しく愛しているかは言うまでもないでしょう。良い両親は子どものおねだりに対して、ねだられたもの自体は必ずしも与えませんが、的確な判断と愛情は必ず与えます。

私たちと神様の関係は、この子どもと両親の関係に似ています。神様は私たちが欲しがるものを必ずしも与えてくださるとは限りません。そもそも私たちは、子どもと同じように、自分に本当は何が必要なのかを知らないからです。必要な栄養を知らずに、甘いものばっかりを欲しがって食べていたら体を壊します。だから神様は時に私たちに、甘いお菓子の代わりに野菜スティックを与えたりします。

「神様が祈りを聞いてくださらない」という嘆きを、時々教会で耳にすることがあります。それで「だからやっぱり神様なんていないんだ」と教会を離れてしまう人さえいます。そんな人は「お菓子が欲しいのに我慢しろだなんて、お母さんは僕を愛してくれていないんだ」と駄々をこねる子どもに似ています。「ファミコンが欲しいのに買ってくれないで、代わりに計算ドリルを買ってくるだなんて、お父さんは僕のことをちっとも分かってくれないんだ」とすねる子どもにも似ています。

もし、子どもがおねだりするものを両親がすべてそのまま与えるのであれば、それは事実上、もはや「おねだり」ではなく「命令」です。子どもが両親をコントロールし、命令する立場になってしまっています。この状態が健全な親子関係ではないことは、言うまでもないと思います。同じように、私たちが祈り求めるものを神様がすべてそのまま与えるのであれば、それは事実上、もはや「祈り」ではなく「命令」です。人間が神様をコントロールし、神様より上の立場になってしまっているということです。これは神様と人間との健全な関係とは言えません。

祈っても思うようにならない、神様は自分を愛してくださっていないのではないか、いや、そもそも神様なんていないんじゃないか、と不安になっている方はいませんか?「求めれば与えられると言ったのに!」と、神様に対して怒りのような感情を抱いている方はいませんか?

実は僕も、かつてはそうでした。すごく欲しいものがあったんです。それについて3年間も、それはもう熱心に毎日祈りました。そして一時はそれを手にしました。「神様が与えてくれた! やっぱり神様はすごい! 求めれば与えられるんだ!」と喜びました。でもそれはすぐになくなってしまいました。するとその日、今度は聖書を床にたたき付けて「だましたな! 二度とお前の力なんて頼らない!」と神様を呪いさえしました。僕はつまり、神様に「命令」して、神様をコントロールしようとしていたんですね。自分の思い通りにしてくれる神様は喜ぶけれど、自分の思い通りにしてくれない神様は憎む、という駄々っ子のようなことをしていたわけです。

しかし、その日は初夏の少し暑い日で、ふと目にした場所に涼しそうな木陰がありました。その木陰をみたときに、僕はヨナ書の最後のシーンを思い出しました。神様が与えてくださった木陰を喜び、その木陰を奪われると怒りだしたヨナのことをです。「あなたは当然のことのように怒るのか」(ヨナ4:4、9)というその言葉が、ヨナにではなく僕自身に向けられていると実感しました。そして「僕が望むものよりも、はるかに良いものを神様は用意してくださっている。なぜなら僕は神様に愛されているから。木陰が必要なら与えてくださるし、必要でなくなれば奪ってくださる。いつまでも木陰にいたら虚弱体質になってしまうかもしれないし、そうか、それなら日なたぼっこをすればいいんだ」と、ストンと腑(ふ)に落ちてしまい、怒りの感情もウソみたいにスッと消えたんです。

あれから10年以上もたちましたが、今、自信を持ってはっきり言えます。奪われたことこそ、愛だったと。あの時、神様が奪ってくださらなかったら、僕は神様に「命令」し続けて、きっとどこか心か体を致命的に損ねていたことでしょう。神様は私たちを愛するが故にこそ、時に私たちから「大切なもの」を奪うのです。

とあるパーティーに、ナッツのアレルギーを持っている子どもがいました。ある人が、それを知らずにその子にナッツ入りのクッキーをあげてしまいました。別のある人がそれに気付いて、その子がクッキーを口に入れる寸前のところで、それを取り上げました。その子は泣きました。まるでその人がその子をいじめているような絵になってしまいました。その子はまだ小さかったので、自分のアレルギーのことをちゃんと理解できていなかったのです。だからナッツ入りのクッキーでも欲しがって、「これ食べたい」とおねだりしたのです。クッキーをあげた人とクッキーを取り上げた人。どちらがその子を理解し、愛していたでしょう。

求めても与えられません。捜しても見つかりません。たたいても開かれません。むしろ奪われたりします。隠されたりします。閉ざされたりします。でもそんな時こそ、私たちは神様に本当に愛されているんです。守られているんです。

むしろ「欲しいもの」が与えられたときこそ、私たちは警戒しなければいけないのかもしれません。それは本当に私たちを知り、愛してくださっている神様が与えてくださったものなのか。それは私たちのことをよく知りもしない、愛してもいない何かが与える、ナッツ入りのクッキーなんじゃないかと。

また少々長くなってしまいました。読みくたびれてしまったらごめんなさい。それではまたいずれ。主にありて。マロでした。

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横坂剛比古

横坂剛比古(よこさか・たけひこ)

1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科卒、バークリー音大CWP卒。作曲家、ベーシスト、行政書士、コラムニスト、WEBディレクターなどなど、神様の導くままに生きていたらムカデのように何足ものワラジを履くようになってしまったクリスチャン。上馬キリスト教会ツイッター「中の人・まじめ担当」。

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