前ローマ教皇フランシスコが先月21日に死去したことに伴い、新教皇を選ぶ選挙「コンクラーベ」が、バチカン(教皇庁)のシスティーナ礼拝堂で7日から行われている。
史上最多となる133人の枢機卿が参加して行われており、3分の2以上に当たる89人以上の得票で選ばれる。同日行われた1回目の投票では該当者はおらず、システィーナ礼拝堂の煙突からは、新教皇の選出がなかったことを知らせる黒い煙が上った。選出されれば、白い煙が上る。
日本のカトリック中央協議会の説明によると、初日の投票は1回だけだが、続く2日間は午前と午後の2回ずつ、1日に計4回の投票が行われる。3日間で決まらない場合は、最大1日の祈りの期間を置き、同じ手順で投票を行う。7回の投票で決まらなければ、また1日を置いて7回行い、それでも決まらない場合は、さらに1日置いて7回行う。
それでも決まらなければ、1日の祈り、考察、対話の期間を置いてから、前回投票の上位2人で決選投票を行い、3分の2以上の得票で選出される。被選出者が教皇となることに同意すれば、そこでコンクラーベは終了する。
コンクラーベは、ラテン語で「鍵と共に」という意味で、13世紀に教皇選出が紛糾し、約3年にわたって空位が続いた際、枢機卿たちを閉じ込めて教皇を選出させたことに由来する。その後も、歴史を振り返ると、教皇選出までに半年余りかかったコンクラーベもある。
では、前教皇フランシスコの後継となる第267代教皇は、いつ、何回目の投票で決まるのだろうか。ここでは、記録が残る過去の特徴的なコンクラーベや近年の傾向を紹介する。
近代史上最長のコンクラーベは181日間
カナダのカトリック系メディア「SLメディア」(英語)によると、近代史上最長は、第247代教皇ベネディクト14世を選出した1740年のコンクラーベ。2月15日から8月17日までの181日間に及んだ。参加した枢機卿は当初51人だったが、半年間に及んだ期間中に4人が亡くなったという。
1740年以降で次に長いのは、第250代教皇ピウス6世を選出したコンクラーベ。1774年10月5日から1775年2月15日までの134日間に及び、この時も期間中に、参加した枢機卿44人のうち2人が亡くなった。
ベネチアで開かれたコンクラーベ
次の第251代教皇ピウス7世を選出したコンクラーベも、1799年12月1日から1800年3月14日までと、104日間の長期にわたった。なお、このコンクラーベは当時、ローマがフランス軍に占領されていたため、ベネチアで開催された。ローマ以外で開催された最後のコンクラーベで、以降は全てローマで行われている。
司祭が教皇に選ばれたコンクラーベ
第254代教皇グレゴリウス16世は、1830年12月14日から1831年2月2日にかけたコンクラーベで選出されたが、当時は枢機卿に任命されていたものの、司教ではなく司祭の立場だった。司教ではない枢機卿が教皇に選出された最後のケースとされる。
グレゴリウス16世を選出したコンクラーベも、51日間と長期に及んだ。しかし、その後継である第255代教皇ピウス9世以降は短期化され、いずれも2~5日間で選ばれている。
15日間の猶予期間、80歳未満の年齢制限
19世紀後半以降、非欧州出身者の枢機卿が誕生するようになると、到着の遅れを理由にコンクラーベに参加できない枢機卿が出てくるようになった。そのため、第259代教皇ピウス11世を選出した1922年のコンクラーベからは、教皇の死去・退位からコンクラーベの開催まで15日間の猶予期間が設けられるようになった。
1970年には、コンクラーベの投票権を持つ枢機卿は80歳未満とされる。第263代教皇ヨハネ・パウロ1世を選出した1978年8月のコンクラーベは、80歳未満の枢機卿で行われた初めてのコンクラーベとなった。
一方、ヨハネ・パウロ1世は、33日間という史上最短の在位期間で死去。同年10月に再びコンクラーベが行われ、第264代教皇ヨハネ・パウロ2世が選ばれた。そのため、1978年は1年で2回のコンクラーベが行われ、計3人の教皇が在位した年となった。
コンクラーベの近年の傾向
コンクラーベに参加する枢機卿の数は、1978年以降いずれも100人を超えており、増加傾向にある。
教皇選出までに要した投票回数は20世紀以降記録が残っており、最多は第259代教皇ピウス11世(1922年)の14回。一方、最少は第260代教皇ピウス12世(1939年)の3回となっている。先々代の教皇ベネディクト16世は4回、前教皇フランシスコは5回の投票で選ばれている。
過去5代の教皇に限れば、いずれも2、3日の間に4~8回の投票で選出されている。近年の傾向に従えば、新教皇は8日か9日のいずれかの投票で決まると予想される。