日本宣教論(102)「学習のための集団」型 後藤牧人

2019年10月15日22時45分 コラムニスト : 後藤牧人 印刷
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「学習のための集団」型

次に教会の第三の型について述べる。これは日本社会に特有の集団であり、完全な共同体ではないが、なお日本社会の中での、ただ一つの自発加入の準共同体である。日本のキリスト教会は、「礼拝者の共同体」を形成するとき、この「学習のための集団」のパターンに従って自己を形成しているように思われる。

これらは「習い事のための共同体」、または「孤独の創造のための共同体」という主題で、すでにわずかではあるが触れた。ここで、もう少し詳しく見ていきたい。実は、これらの集団には、日本の教会との間の共通性をかなり発見できるように思う。繰り返しになるところがあるかもしれないが、もう一度この問題を取り上げて考えたい。

この範疇(はんちゅう)に入る集団には、いろんな種類があるが、日常人の目に触れやすいものとしては「稽古ごと集団」がある。これらは師匠の価値観を中心として形成されるものであって、日本人の意識になじみが深いものとしてはお茶、お花の習い事、武道の道場などがある。これらの半共同体は美意識の習得のための学びの団体である、と言えよう。それは茶道、華道、書道などはもとより、武道の道場でも美意識が重要な要素であるように見える。

これら「稽古ごと集団」には、さまざまの流派があり、すべて創始者の美意識、または美に関する価値観によって流派が形成されている。技術ばかりでなく、立ち居振る舞い、礼儀、作法なども重要な要素とされているのは、そのような理由による。武道においても型が重視されてきたのであって、美意識が重要な部分として存在することを示しているように思われる。維新前にはさまざまな流派があり、それぞれが別々に段位を発行していた。近来はスポーツ性が増してきて、流派性がかなり後退し、流派による段位の発行は廃止され、剣道と柔道は、全国統一の段位が発行されるようになっている。

「学習のための集団」は稽古ごと集団にとどまらない。実は「稽古ごと集団」がプロの「芸能者の集団」を前提としているからである。そうして、その奥にはさらに「宗教者の出家集団」が認められる。つまり三層の「集団」の構造があり、それらの特性をキリスト教会も無意識のうちに受け継いでいるのである。

この集団の三層の類型を、ここに挙げてみたい。これらを一組にして見ると、これらが極めて日本的な集団であることが見られる。日本のキリスト教会が、これらの構造を借りて形成されていることが浮かび上がってくるように思う。これら三者は、それぞれが日本社会の強力な2つの共同体である「職場」と「家族」の狭間で存在することを許されているものである。

その三層の集団とは

・稽古ごとの集団
・芸能者の集団
・祖師を中心とする僧集団

である。順に見ていきたい。

稽古ごとの集団

これは師匠の下で学ぶのである。お花、お茶、書など多くの種類がある。いろんな流派がある。素人の目から見てであるが、泡が立つように茶筅を使うのと、立たないように使うかで流派が違う、などというのもあるようだ。こういうのを美意識の違いというのだろう。

これらの諸流派は、別種の価値体系によって成立しているので、比較は難しい。だから他派については評価のしようがないのであって、悪く言えば無視であり、流派に対する忠誠が要求される。であるから、有段者が他の流派に移るなどということはあまり考えられない。これは「派」が小宇宙を形成しているのである。だから他派に移ればいわば裏切りになる。

活躍の場は、流派の中だけで可能であるので、流派の枠の中に居続けることが重要となる。流派の外では、発表の場はないと言ってよい。その評価は流派の中だけのことであり、一般の民衆が家庭や、また街頭で評価するものではない。閉鎖的な集団の中での価値付けがすべてとなる。自分が、別に流派を立てるということなら別だが。

活け花作家の中には、近頃ホテルやキャバレーで盛んに活躍している人物がいて、流派に属せず、弟子も取っていない。そういう人はクラスや教室で教えている。つまり技術を教えているのであって、集団を形成しているのではない。そのような動きもあるようである。このような人の場合は依頼主や、また一般の民衆によって価値が認められている。流派という発表のためのステージの外に、活躍の場があるのだ。このような人にとっては、流派は絶対ではない。だが、そのような人は例外である。

各流派は段位性を取っており、本部が認定する。入門者の前には、気が遠くなるような段位を昇って行く道程がある。段位制は、日本的な習い事の特長であって、「型」の習得と段位とはワンセットである。一般に4段くらいまでは「型」を習うのであるが、5段あたりからは型を越えて創造的に振る舞ってもよいとされているようである。書も花も茶も武道も、そのような線に沿っているようである。「型」の重視と「型」に学習者をはめ込むという、これは日本の芸能の特長である。

これでは、天才的で独創的な能力を持つ者は窒息させられてしまうだろう。いわば日本的な習い事の集団というのは、天才的な才能を持つ者は圧殺するシステムのようにも見える。もともと芸術は習うものではなく、天性としてその人に備わっているもののはずである。(芸術系大学を出ていない画描きも、音楽家もいくらでもいる。また文芸家を養成する大学などない。)

ところが、日本では俳句も和歌も詩も段位までは出さずとも、先輩とか師匠を中心とした団体があって、希望者を「指導」している。もともと詩作などというものは、教えられるものではないであろう。数少ない天才が、誰に教えられるともなく生み出すものであろう。ところが、日本には同人結社が数限りなくあり、さほど天才的でもないような人物が指導をしている。

俳句一つ取ってみても数千の結社があり、それぞれが句誌を発行している。小説も多数の結社があり、それらが発行する同人誌がある。出版社は、それらの同人誌をあさって新人を発掘する。米国にはそんな結社はないから、著者が直接に出版社に原稿を送り付けるか、またはそういう売り込みをするエージェントに原稿を預ける。うまく売り込めて原稿料が入れば、エージェントは報酬を受け取る。日本では、そういうエージェントは職業として成立しない。同人誌があるからである。

このように日本は、芸術教育活動が盛んである。もっとも、これらの活動が果たして芸術の創作に役立っているのか、それとも阻害しているかについては疑問がないわけではない。このように家元制度、流派制度には、生徒の囲い込み、創造的衝動の圧殺、などと弊害があるのは事実である。しかし長所も多くあるので、それは見過ごせない。実は習い事の共同体は、他国の文化にはない驚異的な特長を持つ。

すなわち、この段位制度や習い事の集団の制度は、一般庶民に対して芸術の優れた入り口を提供するという、そういう機能を持っている。名取りになって、師匠になれる免許を得た者は多くいて、日本中のどの町にも、華道やお茶を教える人があふれている。この人々の活動は、芸術家を育成してはいないにしても、「多数のディレッタントと多数の優れた鑑賞者」を生み出していて、それは揺るぎなき事実である。

このように伝統的な「趣味/芸能の入り口」を担当して庶民に教える者は、高位の有段者ならば誰でもいい。天才である必要はない。このようにして流派と段位制というものは、芸術の民主化に役立っている。このようなシステムによって、茶道も華道も、また俳句も和歌も、その普及は目を見張るものがある。それが日本の特色である。

芸術は「創造者」と「鑑賞者」によって成立する。このような習い事の共同体によって、優れた「鑑賞者」が多く育っているのが日本という国である。優れた鑑賞者の存在は芸術の成立の重要な要件で、茶道、活け花、和歌、俳句などの多くのグループは上質の鑑賞者を生み出している。これは武道の道場や、他の習い事の流派のすべてにおいても言えることである。よい鑑賞者、見巧者(みごうしゃ)の多くある所では、また優れた創造者も生まれる。こうして、庶民の生活の中に習い事が盛んで、師匠も多く、各所で教えているのが日本の社会である。

日本は、芸術の国である。日頃何気なく使っている安価な湯飲み、茶碗、箸であっても、そこには色彩のバランスとデザインの素晴らしさがある。日本の社会には、隅々にまで良いデザインが満ちている。外国で暮らすとき、特に感じることでもある。

有田陶器市というのが毎年催され、全国から有田、伊万里の作品を求めて人々が集まる。2003年は100回目が行われたのであり、100万を超える人出があった。日常に使用する器を求めて、また優れた作品を見て楽しむため、それだけの人が集まるのである。

大きな店で棚に飾られたものもあるが、工房の前の空き箱に積み上げられたものもある。人々はその奇跡的な美を楽しみ、それらを生み出している工房の主人などと言葉を2、3言交わす。ささやかな買い物をし、満足して帰るのである。こういった人出が、優れた陶磁器の作品を生む原動力なのである。1週間で100万の人を集めるのが、3千数百万の人口の関東ではなく、数百万の人口の九州にあるのだ。

また習い事の文化は、日本社会の特徴を作っている。それは勉強することを好む国民性であり、免許皆伝に至るまでの気が遠くなるような階級の急坂を目の前にして、ともかく裾野から、初級から食いついていくという気迫を庶民が持っている。これは日本の国民性の一つであり、一人一人が目標を立てて学ぶのである。

こうして茶を習い、また高価な茶道具を使った茶事に参加することによって、そこでしか味わうことのできない優雅さを日本人は経験し、学ぶ。他の国ならば、一握りの何代も続いた貴族だけが持てるような経験を、日本では多数の庶民が味わい、また優雅な身のこなしも付け焼き刃でなく会得することができる。これは日本独特の優れた制度である。一般の日本人にとっても創造的で健康な余暇の過ごし方である。

(後藤牧人著『日本宣教論』より)

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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)

後藤牧人著『日本宣教論』

日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。

(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)

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後藤牧人

後藤牧人(ごとう・まきと)

1933年、東京生まれ。井深記念塾ユーアイチャペル説教者を経て、町田ゴスペル・チャペル牧師。日本キリスト神学校卒、青山学院大学・神学修士(旧約学)、米フィラデルフィア・ウェストミンスター神学校ThM(新約学)。町田聖書キリスト教会牧師、アジアキリスト教コミュニケーション大学院(シンガポール)教授、聖光学院高等学校校長(福島県、キリスト教主義私立高校)などを経て現職。

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