渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎 新紙幣の人物とキリスト教

2019年4月9日12時13分 印刷
+渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎 新紙幣の人物とキリスト教
左から、新紙幣の肖像画に選ばれた渋沢栄一(1万円札)、津田梅子(5千円札)、北里柴三郎(千円札)

1万円札、5千円札、千円札の3紙幣と、500円硬貨のデザインが2024年度上期をめどに変更される。新紙幣の表面で用いる肖像画に選ばれたのは、1万円札が「日本の資本主義の父」と呼ばれる実業家の渋沢栄一、5千円札が津田塾大学創設者の津田梅子、千円札が「日本の近代医学の父」と呼ばれる細菌学者の北里柴三郎。この内、津田は洗礼を受けたクリスチャンで、渋沢はクリスチャンではないものの、多くのキリスト教団体と関わりを持ち支援した。3人の略歴と、キリスト教との接点をまとめた。

渋沢栄一

渋沢は1840年2月13日、現在の埼玉県深谷市の農家に生まれる。家業を手伝いつつ、幼い頃から父に学問の手解きを受け、一橋慶喜(徳川慶喜)に仕えるようになってから、その実力が認められていく。明治維新後は、大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わる。退官後は第一国立銀行(現・みずほ銀行)の総監役(頭取)となり、1931年11月11日に91歳で生涯を閉じるまでに、500余りの企業の設立や経営に携わった。

一方、渋沢は企業だけでなく、約600の教育機関・社会公共事業に関わり、民間外交にも尽力した。その中には、キリスト教関係のものも非常に多い。

1907年に救世軍のウィリアム・ブース大将が来日した際には歓迎会の発起人となり、1920年に東京で世界日曜学校大会が開催された際には、大会後援会副会長として支援した。また、東京基督教青年会館が関東大震災で被災した際には、復興建築資金募集後援会の相談役にもなっている。

渋沢栄一記念財団のホームページによると、渋沢が関わったキリスト教団体は、▽万国学生基督教青年会、▽救世軍、▽世界日曜学校大会後援会、▽ハワイ基督教青年会、▽日本日曜学校協会、▽東京基督教青年会館復興建築資金募集後援会、▽サンフランシスコ日本人基督教青年会、▽東京基督教女子青年会、▽日本基督教連盟と多数に及ぶ。

渋沢の伝記小説『雄気堂々』(上、城山三郎著)には、日本人で初めて救世軍の士官(牧師)となった山室軍平に対して、クリスチャンではなかった渋沢が救世軍を支援する理由について、次のように語ったと描かれている。

実業家は金を作ることを知っているばかりか、どんな風に使うたらよいかということをわきまえている。それだから、自分らよりもあまり下手に金を使うと見ると、出したくなくなる。しかしあなたのところでは、比較的わずかな金で大きな事業をなし、金が活(い)きて働いているように見えるから、それでわたしは熱心に賛助しているのです。

渋沢はこのほか、宗教者同士の相互理解と協力を推進することを目的とした「帰一(きいつ)協会」の設立にも関わった。これは、日本女子大学の創設者で牧師でもあった成瀬仁蔵が中心となったもので、新渡戸稲造や宣教師のメリマン・ハリスら、多くのキリスト教指導者が会員として参加した。

津田梅子

津田は1864年12月31日、旧幕臣の津田仙・初子夫妻の次女として、現在の東京都新宿区に生まれる。6歳の時、北海道開拓使が募集した日本最初の女子留学生5人のうち最年少者として、岩倉使節団に随行して渡米。ワシントン近郊のジョージタウンに住む米国人夫妻に預けられる。8歳で自ら洗礼を希望し、フィラデルフィア近郊の教会で受洗。津田塾大学のホームページによると、教会の司祭は当初、津田に幼児洗礼を授けようと考えていたが、津田が非常にしっかりとした意思を持っていたため、成人の洗礼を授けたことが記録に残っているという。

11年にわたり米国で教育を受け帰国したが、日本における女性の地位の低さに驚き、その地位向上の必要を痛感する。そして、自分で学校をつくる夢を持ちつつ、再度米国に留学。在学中から、自分の後に続く日本人女性のための奨学金制度を設立するなどした。帰国後、華族女学校などで教鞭を執る傍ら、ヘレン・ケラーの元を訪問したり、フローレンス・ナイチンゲールと面会するなどし、多方面から多くの刺激を受け、日本で女性のための高等教育に力を尽くす決意を固める。そして1900年に、津田塾大学の前身となる女子英学塾を創設。華族・平民の区別のない女子教育を始めた。しかし、津田自身は創業期に健康を損ない、学校の基礎が整うと1919年に塾長を辞任。鎌倉の別荘で闘病生活を続け、1929年8月16日に64歳で天に召された。

北里柴三郎

北里は1853年1月29日、現在の熊本県小国町で代々床屋を営む家に生まれた。18歳で熊本医学校(現・熊本大学医学部)に入学し、オランダ人医師の指導を受け、医学を志す。熊本医学校は、明治維新で薩長土肥に後れを取った肥後が教育面で先駆的であろうと、熊本洋学校と共に立ち上げた。熊本洋学校からは、札幌バンド、横浜バンドと並んで日本の明治期のプロテスタント3源流の1つである熊本バンドが生まれている。

北里はその後、東京医学校(現・東京大学医学部)に入学し、「医者の使命は病気の予防」と確信し、生涯を予防医学にささげることを決意する。卒業後は内務省衛生局(現・厚生労働省)に入り、6年間ドイツに留学。病原微生物学研究の第一人者であるロベルト・コッホに師事した。留学中に破傷風菌の純粋培養に成功し、さらにその毒素に対する免疫抗体を発見、血清療法を確立したことで世界的に知られるようになる。

帰国後、福澤諭吉らの援助を得て伝染病研究所を設立。所長として伝染病予防と細菌学の研究に取り取り組み、日本初の結核治療専門病院「土筆ヶ岡養生園」(現・北里大学北里研究所病院)を設立するなどする。また、1894年にはペストが蔓延した香港に調査へ赴き、ペスト菌も発見した。

伝染病研究所の所長を辞任した後、北里研究所を設立。狂犬病やインフルエンザ、赤痢などの血清開発を続けた。後進の指導にも熱心に取り組み、サルバルサン(梅毒の特効薬)創製で知られる秦佐八郎や、黄熱病の研究で有名な野口英世など、多くの優秀な弟子を輩出した。1917年には、慶応義塾大学医学科(現・慶応義塾大学医学部)の創設にも関わり、初代科長、病院長に就任。1931年6月13日、78歳で生涯を閉じた。

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