孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(2)惨めな貧民たち

2019年3月6日14時53分 コラムニスト : 栗栖ひろみ 印刷

もう一人ハインリッヒに影響を及ぼした人物がいた。それは、ヘンクという村に住む祖父アンドレアスであった。ハインリッヒはよく母の手に引かれてこの祖父の所を訪ね、数日間泊まるのが習慣になっていた。この祖父は教区の牧師をしており、貧しい農家の子どもたちのために作られた「農民学校」で子どもを教えていた。

ある時、ハインリッヒは祖父に尋ねた。「おじいさんは学校で何を教えているの?」。「宗教だよ」。「宗教って何?」。「それはね、不幸な人たちや苦しんでいる人たちに神様の愛を伝えることなのだよ」

アンドレアスは、牧師として教区の貧しい人々の家や、病人を抱える家を戸別に訪問することにしていた。都会に住む人々はフランス文化の影響を受け、華やかな生活を謳歌(おうか)していたが、このような辺境に暮らす農民たちは貧困のどん底であえいでいたのである。アンドレアスは、訪問の際にいつもハインリッヒを一緒につれて行った。

「ケルナーさん、こんにちは」。彼は、軒が傾きかけた一軒の農家の戸を叩いた。すぐに顔色の悪い主婦が顔を出した。「ヨゼフくんがしばらく学校に来ないものだから、心配なので来ました」。すると、主婦は片手でぼさぼさの髪をかき上げながら、吐き捨てるように言った。

「あの子なら、奉公に出したから、もういませんよ。うちじゃ、主人がけがをして働けなくなったもんでね。あたしの内職だけじゃとても一家の食いぶちを稼ぐことなんかできませんよ。あの子ももう7歳になるからね、働いてもらわなくちゃ」

「どこへ行ったんです?」。「町の織物問屋ですよ。行きたくないって泣くのを無理につれてってもらったんです」。それから、彼女は椅子にかけてある子どものボロ着を手に取り、胸に抱きしめた。

「ああ、牧師先生。どうして私ら農民はこんなに苦しまなくちゃならないんです?働いても、働いても、みんな税金に持っていかれちまう。自分たちが作った畑の作物を食べることもできないんですよ」

アンドレアスは、持ってきたパンとわずかの食物を彼女に渡した。その時ハインリッヒは、祖父の目に涙が光っているのを見た。

「ケルナーさん。私は無力で、あなたがた一家のためにお祈りして差し上げることしかできません。でもね、これだけは信じなさるがいい。私たちの神様は、孤児とやもめの父であり、決してお見捨てにならない方だということを」。そして、この一家のために戸口で祈りをささげてから、この農家を後にした。

その次に足を向けたのは、喘息を患うハンナ・シュルツという人の家だった。戸口に近づくと咳き込む声が聞こえ、6歳くらいの男の子と4歳くらいの女の子が戸を開けた。「こんにちは。どんな具合です?」。アンドレアスは、ハインリッヒの手を引いて中に入った。隅の粗末なベッドには、痩せて目の下にくまが出来た主婦が伏せっていた。

「まあ、先生。こんな所まで・・・」。起き上がろうとするのをアンドレアスは手で制し、持ってきたパンと少しばかりの食料、それから懐から小さな水薬の瓶を出して枕元に置いた。「これは咳止めに効く薬でしてな。飲んでみてください。またそのうちに来てみましょう」。そして、その場にひざまずき、祈りをささげてからこの家を後にした。

だいぶ行ってからも、まだ咳が聞こえていた。「隣の教区に医者がいるから、あの人を療養させてもらえないか聞いてみようか」。アンドレアスは、独り言のように言った。

「おじいさん」。ハインリッヒは、祖父の手を強く握りしめながら言った。「おじいさんはいいことばっかりするね。この村の人はきっと感謝しているよ」

すると、アンドレアスは咳払いをしながら首を振った。「いや、私はもう年をとった。これ以上のことをすることはできない」。それから、孫の肩に両手を置いた。「だが、おまえは将来力をつけて、こういう貧しく惨めな人たちの助けとなってあげなさい。きっとおまえならできるだろう」

その時、ハインリッヒは何か胸の奥がじんとし、感動が込み上げてきた。「分かった。約束するよ、おじいさん」。彼は急に祖父が大きく偉大な存在に思われてきたので、まぶしそうにその姿を見上げながら答えた。

<あとがき>

幼いペスタロッチは、母親のスザンナと家政婦バーバラによって父なる神への信仰と隣人への思いやりをその心に植えつけられて育ちました。しかし、それ以上に彼に影響を与えたのは、ヘンク村に住む祖父のアンドレアスでした。

彼は牧師をしていましたが、ただ講壇から説教をするだけでなく、その日々はひたすら貧しい人々への奉仕にささげられていました。彼は病人のいる家庭や、貧困に打ちひしがれた人々のいる家庭を訪問し、彼らのために祈り、なぐさめ、時には自分の蓄えにしている食物を与えてしまうこともありました。祖父と一緒にこうした人々の所を回ったペスタロッチは「泣く者と共に泣く心」を祖父から受け継いだようです。

ある日、祖父は彼に言います。自分は年をとってこれ以上のことはできないが、どうかおまえは将来力をつけてこれら惨めな人たちの力になってあげなさい――と。ペスタロッチが教育者である以前に社会改良家といわれるようになったのは、こうしたいきさつからでした。

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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)

1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。

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