神声人語―御言葉は異文化を超えて―(49)「心に適う」「怒り」「平和・平安」 浜島敏

2018年6月25日11時54分 コラムニスト : 浜島敏 印刷
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「心に適う(喜び、満足)」(well pleased)

マルコ1:11には、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と1つの文章に2つの大切な面が述べられています。愛のあとに喜びがやってくるのは、朝の太陽が、輝かしい日の出の希望を満たしてくれるのと同じです。リベリアのネアオ人は、この「心に適う」というのを「私の心はあなたにあって安らぎを得ています」と言います。近くに住んでいるロマ人は、「私の心はあなたと横になる」と翻訳しています。ここには、確信に満ちた喜びがあり、心からの交わりを求めている姿があります。

中央メキシコの寂しい、荒れ果てて風雨に浸食された山地に住んでいるパメ人はこの感情を少し違った言い方で表しています。彼らは「あなたは私の心を引っ張る」と言います。この引っ張るというのは、英語の表現から「憐れみの綱引き」でもあるかのように考えてしまいがちですが、そうではなくて、交わりの方向、交わりにより一体となる喜びの方向に引っ張っていくことを表しているのです。

ピーロ人はまた別の言い方もします。彼らは「私の考えが整った」と言います。もはや調子外れで調和がとれなかったり、注意散漫であったり、矛盾していたり、疑いと心配にとらわれてはいないのです。考えが整った、すなわちあるべき場所に落ち着いたということで、「心に適う」ということになるのです。霊的生き方と言うとき、この「整える」という側面を、私たちはしばしば無視してきました。取り散らかして注意散漫になっているようなところに、霊的交わりの基礎となるものはありません。

「怒り」(anger)

私たちは普通「怒り」というものを考えるときには、「怒り」が他の人に与える影響について考えますが、怒りが自分にどう影響するかをあまり考えません。しかし、ある言語では、怒りの一義的な意味が、実はこの自分に対する感情であることを知ってショックを受けることがあります。シエラレオネのメンデ人は怒りを「心を切り裂く」と言います。ミスキート人は「切り裂かれた心」と言います。この「切り裂かれた心」というのは、私たちが侮辱を受けたときだけに受ける感情ではなく、「敵意」が私たちの心を支配してしまうような時にも持つ感情なのです。

メキシコのチアパに住むツォルツィル人は、「怒り」は「熱い心を持つ」(心がカッカとなる)ことだと言います。これは私たちが怒ったときに感じる感情を正確に表しています。グアテマラの国境の反対側に住んでいるコノブ人は「真っ赤な魂」(文字通りでは「真っ赤な内面」)と言います。怒ったときに顔が真っ赤になりますが、それは怒りのもとである内面が赤くなっているということであります。西アフリカのモシ人は、怒った人のことを単純に「心が腫れている」と表現します。

「平和・平安」(peace)

平安(平和)には積極的な平安(平和)と消極的な平安(平和)があります。消極的な平安(平和)とは「戦いのない」ことです。積極的な平安(平和)とは、宇宙を支配し維持される神に静かな確信を持つことです。消極的な平安(平和)を翻訳するのは簡単です。「戦いのない」と言えば済むことです。積極的な平安(平和)を翻訳するには、たくさんの言葉の中から選ばなければなりません。それぞれが平安(平和)というものの一側面を描いているからです。

平安についての最もありふれた比喩は、リベリアのグベポ人の使っているもので、「私の心は座る」です。人生の不確実の中をあちらこちらと心配しながらさまよい歩く必要はもうありません。神が過去も現在も未来もすべて支配しておられるという確信を持って、心はもう座ってもよいのです。南部メキシコの熱帯ジャングルに小家族で住んでいるラカンドン人は、平安とは「内なる休息」と言います。体の休息ではなく、魂の休息です。

メキシコのオアハカ市の近くの山に住んでいるサポテク人は、平安のもう少し違った一面を教えてくれます。彼らの言葉では、平安は「心が静かに座っている」と言います。心が休むだけでは不十分で、静けさが休息の本質でなければならないというのです。

メキシコのクイカテック語では、「平安」は「静けさ」という言葉で翻訳されます。しかし文脈から考えると、聖書が伝えている静けさというのは霊の状態を言っているのであって、単なる環境が静かということではありません。

「静けさ」という訳は不十分だと思われるかもしれません。確かに、もっと表現力の豊かな比喩もあります。しかし、クリスチャンがこの翻訳の意味する単純な真理を知ることができたら、測り知れない利益を得ることでしょう。

多くの人は「心の平安」「魂の平安」を得ようと必死に努力します。しかし、日常生活の騒音の中で立ち止まって、神の語り掛けを聞くだけの十分な時間をとろうとしません。神は、いわゆる文明人が作り上げた騒がしい生活の中で語ろうとはなさいません。神は今も小さくて静かな声で話されるのであって(1列王記19:12)、その声は私たちの実りのない生活の中で、痛ましいほどの騒音でかき消されてしまうのです。

バリエンテ人は平安を「穏やかな気持ちを持つ」と表現します。さわがしい心は落ち着かない心であり、落ち着かない心は、普通、この世界に対して反逆したり、神に対して反逆したりするのです。グアテマラのケクチ語では、平安と言うときに「静かな善」という句を使いますが、平安に積極的な要素が入っているのを感じます。平安は受動的ではなく、能動的です。静けさの中にあっても能動的なのです。

アフリカのいろいろな場所で、「平安」はある種の涼しさを表す言葉で表現されます。ギニアのフタフラ人は、「平安」を単純に「涼しさ」と言い表しています。サハラ砂漠から吹いてくる熱風や海岸からの湿度の高い嵐に襲われることの多い人たちが、「平安」を「涼しさ」と表現するのは当たり前でしょう。涼しい夕方のそよ風が、日に焼かれた木や草に新しい命をもたらすように、不安で心配している人にとって平安こそは新しい希望をもたらすのです。

平安は「休息」とか「涼しさ」というイメージだけでは表現し切れません。メキシコのサカポアストラ・アステック人は平安を「完全」と表現します。神、他人、自分と平和を保っていない人は完全ではないのです。その人は、何かが欠けていると、アステック人は考えています。その通りではないでしょうか。不安や心配は、魂が変形して不完全なものであることの証拠であり、部分的にしか生きていないことの証拠です。

ニカラグアとホンジュラスのミスキート人は、実質的にはほとんど同じ内容を「1つの心を持つ」という慣用句で表しています。平安な心の持ち主は、1つしか心を持っていません。その人は忠誠心で分裂することもなければ、人格が不完全であることもないのです。平安は疑いと相対する言葉です。疑い深い人は二心、あるいはそれ以上の心を持つ人です。しかし、平安のある人は1つ心であり、完全なのです。

 「心に適う」満足を「考えが整った」と言うピーロ人は、平安のことを「良く整った魂」と言います。「よく整った」ものはピーロ人には美しいと見なされます。従って、平安な心の持ち主は、美しい心を持った人ということができます。当然のことながら、多くの人が不安な生活をするのは、魂が利己的な野心と気高い愛他主義、愛欲的な楽しみと聖なるあこがれ、つきまとって容易に忘れられない過去の記憶と将来に向かっての抱負との間で調和がとれず、感情が醜く混乱しているときです。

平安は喜びとも似た感情です。コートジボワールのバウレ人は、平安を「体の中に歌」、喜びを「胃の中に歌」と言うことで分かります。「体の中に歌」(平安)の方が体全体にしみ渡る体験であり、喜びの方は一時的な体験です。

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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏

ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』

世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。

宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。

本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。

ユージン・ナイダ

 

浜島敏

浜島敏(はまじま・びん)

1937年、愛知県に生まれる。明治学院大学、同大学院修了。1968年4月、四国学院大学赴任。2004年3月同大学定年退職。現在、四国学院大学名誉教授。専攻は英語学、聖書翻訳研究。1974、5年には、英国内外聖書協会、大英図書館など、1995、6年にはロンドン大学、ヘブライ大学などにおいて資料収集と研究。2006年、日本聖書協会より、聖書事業功労者受賞。2014年7~9月、ロンドン日本語教会短期奉仕。神学博士。なお、聖書収集家として(現在約800点所蔵)、過去数回にわたり聖書展示会を行う。国際ギデオン協会会員。日本景教研究会会員。聖書の歴史、聖書翻訳に関する著書・翻訳書、論文多数。

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