脳性麻痺と共に生きる(38)初めて参加したのは高校1年生 有田憲一郎

2017年10月21日18時28分 コラムニスト : 有田憲一郎 印刷
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中学部3年生の夏休みに、家族4人で東京から両親の故郷である長崎に車で行った以前から、旅行は好きでした。それまでも年に1、2回は関東甲信越地方に車で出掛け、観光地を回ってホテルに1、2泊して旅をしていました。それはそれで楽しかったのですが、車で長崎まで行った後、なんだかもう1つ物足りなさを感じてしまいました。

長崎までの道中、「行きたいところ、決めていいよ」と両親に言われ、僕は車の助手席で道路地図を広げて「どこに寄ろうかな」と考え、「ここ、いいな」「〇〇に行ってみようよ」と自分で決めていました。以前にも書きましたが、僕にとって旅は生きた勉強の場でした。このようなことは書いてしまうと叱られてしまうのかもしれませんが、「学校に行くより勉強になるかもしれない」と僕はそう思います。

僕が行先を決めると「じゃあ、目的の場所まで案内してよ」と言われ、僕は地図を見ながら初めは自信なげに道案内役をしていました。それが1つの勉強となっていました。

毎年夏前あたりから秋にかけて、全国で障碍(しょうがい)者団体の大会が開かれ、各地でさまざまなシンポジウムや集会が行われています。父はPTAの会長や障碍者福祉団体の代表や役員などをしていて、障碍者福祉の分野では有名な人だったので、大会の時期になると全国から声を掛けられ、講演やパネラー出演など、数々の依頼が届いていたようです。

夏が近くなると「今度〇〇に行ってくるからね」と父が言います。年に何回も地方に出掛けるので、そのたびに「また行くの」と思っていました。そこには、「僕も行きたい。一緒に連れて行ってよ」、そんな思いがありました。

父は、僕が小学部の頃から大会などに参加し、毎年必ずどこかに行っていました。僕が中学部になり、父に「僕も連れて行ってよ。一緒に行きたい」と言ったことがあります。今思えば、ただ単に旅をしていろんな場所に行きたかっただけでした。

すると父は、「そうだな。今は憲には、まだちょっと早い。そのうち、一緒に連れて行く」と言いました。大会の趣旨もよく理解していなかったのに「一緒に連れて行く」と言われたので、その時はうれしさと同時に驚きがありました。父の中ではすでに「憲に何かを学ばせよう」という構想があったのかもしれません。

そのチャンスは、高等部に入学して間もなく訪れました。それは、僕が右足に痛みを感じる前のことでした。

全国肢体不自由児者父母の会連合会という団体組織があり、北海道、東北、関東甲信越、東海中部、近畿、中国四国、九州沖縄の各ブロック大会と全国大会がそれぞれ毎年行われています。学校から戻り、ダイニングで椅子に座っておやつを食べていると、父が「憲、父母の会のブロック大会と全国大会に一緒に行ってみないか」と大会の応募要項と参加申込書を持ってきました。

この時は、「障碍児者が社会の中で生きていけるための取り組みを話し合い、意見交換する場なんだろうな」とボヤッとしたイメージはなんとなくありましたが、具体的に大会の内容を把握していませんでした。

父は隣に座り、僕に資料を見せながら大会について説明してくれました。そして、「お前も高校生だ。これからの進路のこと、福祉のこと、生き方や親亡き後のことも自分で真剣に考えていかないといけない。大会に参加して、お前が生きていくために必要なことを勉強しに行くんだ」と話しました。

全国大会が開催される県は毎年持ち回りになっているので、毎年参加すれば、自然に全国を回って旅することができます。僕は、大会うんぬんよりも「全国を旅することができるかもしれない」ということで頭がいっぱいでした。

関東甲信越のブロック大会は6、7月に行われ、全国大会は9、10月に行われていました。どちらとも夏休みの期間ではなく、大会に参加するためには学校を休まなければなりません。PTAの会長や役員などを務め、障碍児教育にも厳しかった父が、学校を休ませてでも僕を大会に参加させたのは、学校では学べない現実社会をそこで学ばせ、生きていく力や知恵を養わせようとしていたからかもしれません。

そう言われても、当時の僕は、考える力も想像する力も弱く、自分の進路や生き方、まして親亡き後のことなど考えたことすらありませんでした。ただ父の言葉に戸惑い、「何を言っているんだろう」という思いと、将来的には両親が老いていき、僕の介助もできなくなり、いずれは僕より先に死んでいくということは分かっているものの、それを現実問題として受け止め、考えていくことは難しすぎることでした。

父は「どこまででも車で行こう」「大会だけ出て帰ってくるだけじゃ、面白くもないだろう。だから大会が終わったら、いろいろ回って観光してこよう」と言いました。僕は、大会の説明は上の空で、ただ旅行に行けるうれしさだけで「行く」と父に即答したのです。気が付けば、すべての都道府県を制覇することができましたが、そもそも僕が旅をするきっかけとなったのは、この旅でした。

初めて参加した大会は、群馬県で行われた関東甲信越のブロック大会と、沖縄県で行われた全国大会でした。「どこでも車で行こう」とはいえ、沖縄までは車で行かれませんので、飛行機で行きました。

大会は文化会館やホテル数軒を貸し切り、2日間にわたって講演会やパネルディスカッションのほか、医療、教育、就労、地域福祉、親亡き後の問題など、各分野に分かれての分科会が行われました。

父母の会の大会ですから、体に障碍を持った子どもの親や家族が千数人と参加します。僕は参加する前、「きっと障碍を持った子どもと一緒に参加している家族が多いんだろうな」と想像していました。しかし、実際に参加してみると、障碍を持つ当事者を連れて参加している家族は僕たちだけでした。

そのことに僕は違和感を覚え、父に聞きました。「ねぇ。僕みたいな人、いないね。なんでなんだろう・・・?」。すると父は「よく気付いたね。そこがおかしいところだと思っているんだよ。父母の会の大会だからかもね。だけど、本来は当事者の子どもも一緒に連れてきて、本人と一緒に考えていく場にしていかないといけないと思っているんだよ」と、僕に語り始めたのです。

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有田憲一郎

有田憲一郎(ありた・けんいちろう)

1971年東京生まれ。72年脳性麻痺(まひ)と診断される。89年東京都立大泉養護学校高等部卒業。画家はらみちを氏との出会いで絵心を学び、カメラに魅力を感じ独学で写真も始める。タイプアートコンテスト東京都知事賞受賞(83年)、東京都障害者総合美術展写真の部入選(93年)。個展、写真展を仙台や東京などで開催し、2004年にはバングラデシュで障碍(しょうがい)を持つ仲間と共に展示会も開催した。05年に芸術・創作活動の場として「Zinno Art Design」設立。これまでにバングラデシュを4回訪問している。そこでテゼに出会い、最近のテゼ・アジア大会(インド07年・フィリピン10年・韓国13年)には毎回参加している。日本基督教団東北教区センター「エマオ」内の仙台青年学生センターでクラス「共に生きる~オアシス有田~」を担当(10〜14年)。著書に『有田憲一郎バングラデシュ夢紀行』(10年、自主出版)。月刊誌『スピリチュアリティー』(11年9・10月号、一麦出版社)で連載を執筆。15年から東京在住。フェイスブックブログ「アリタワールド」でもメッセージを発信している。

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