脳性麻痺と共に生きる(34)タイプライターからワープロへ 有田憲一郎

2017年8月26日06時37分 コラムニスト : 有田憲一郎 印刷
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僕は手が不自由なので、自分でペンを持ち文字を書くことができません。そのため、幼い頃からタイプライターを習っていました。自分を表現する手段としてもそうですが、機能回復訓練の1つとして電動かなタイプライターを習い始めていました。

先生に言われて日記を書いたり、勉強や宿題をするペンとノートの代わりに、小学部の頃からタイプライターを使っていました。「これで勉強するんだよ」と両親に言われていた僕でしたが、勉強はしたくなくともタイプライターはいじりたかったので、適当に打ち込んでみたり、「ねぇ、早打ち競争しよう」と家で遊びに来ていたボランティアさんと早打ちの競争をして遊んだり、タイプアートを楽しんだりしていました。

中学部になり、電動和文タイプライターを使い始めました。中学までの義務教育で習う漢字と第2水準漢字を打つことができましたが、その頃の僕はほとんど漢字が読めず、小学2年生の漢字が読めればいい方でした。

和文タイプライターは鉄板の板に何百文字もの漢字が書かれてあり、打ちたい文字にレバーを合わせて、一文字一文字打っていきます。そして、使われている文字も中学生のレベルであれば、ある程度読める漢字が並んでいます。しかし僕にとって、見たこともなく読み方も知らない漢字たちがきれいに並んでいました。買ったとき、「これで日記も書いて、勉強もして、漢字も覚えていこうね」と、両親は言いました。

中学部の国語では、漢字を覚えることが大きな課題でした。ペンを持って文字を書くことができない僕は、先生がオリジナルに作った漢字ドリルで勉強していました。その漢字ドリルは、国語辞典で音読みと訓読みを調べて、その漢字を使った単語と言葉をタイプライターで打ち、書き出していくというものでした。勉強嫌いの僕は、「少し勉強しなさい」と両親に言われながら渋々勉強していましたが、その漢字ドリルは楽しく、好きになりました。

それは、勉強が楽しくて好きになったわけではありません。1文字に1枚の漢字ドリルに読み方や単語を調べ、打ち込んでいきます。やった漢字の数だけ紙が増えていきます。僕は勉強よりも、やればやるだけ紙が増え、ファイルが厚くなっていくことに楽しみを感じていたのです。

1枚2枚と増えていく用紙を見て、「結構やったな」とニコニコしている僕がいました。ファイルが厚みを増す分、それだけ勉強した証しにもなります。「頑張ったじゃん」と両親が言ってくれます。

「だいぶ、漢字も覚えて読めるようになったよね」と両親も先生も、そう思っていたことでしょう。ところが、僕は「まったく」と言っていいほど、調べて打ち込んでいった漢字を覚えていなかったのです。そのため、日記を書くのに使っていた漢字はわずか数文字程度で、和文タイプライターに準備されていた、一般的に使われる数百の漢字たちは読めないまま、使うことはありませんでした。

僕が通っていた養護学校(特別支援学校)では、高等部になるとクラブ活動がなくなり、卒業後の進路に向けた授業や指導が始まります。その1つに選択授業というものがあります。週に2日4時間の授業で、春と秋には通常の授業は行わずに1週間の校内実習として行われます。

選択授業とはいっても、自分が受けたい授業を選ぶわけでありません。木工技術、陶芸、コンピューター、生活の授業科目の中から、先生方がその子の障碍(しょうがい)や能力などに応じて受けさせるクラスを決め、卒業後に向けて必要な知識や技術などを学んでいきます。僕は3年間、コンピューターの授業を受けることになりました。

最初の数カ月間、僕は選択の授業でタイプアートをやっていました。当時はタイプアートがはやり、全国の養護学校や施設でもタイプアートの指導に力を入れ、毎年全国タイプアートコンテストが開催されていました。僕も毎年コンテストに応募していましたが、通っていた養護学校ではタイプアートを指導しておらず、教えられる先生もいませんでしたので、逆に僕が先生に技術や技を教えながら授業を受けていました。

数カ月たったある日「有田君。そろそろ、ワープロやってみようか」と先生から言われ、ワープロと出会いました。初めて触ったワープロは大きく、フロッピーディスクも5インチのものでした。キーで平仮名を入力して変換を押せば漢字に変わることが不思議で面白く、僕はワープロの楽しさにはまっていったのです。

授業ではテキストを入力しながら、基本的な機能を学んでいきます。文章を読み、また実際に作文や行事などの感想文を書くので、国語の授業にもなっていました。まったく漢字が読めなかった僕は、練習用に与えられた文章が読めず、先生に「これ、何て読むんですか?」と、ワープロの操作方法より漢字の読み方を聞くことの方が多かったのです。

面白半分にいろんな機能をいじくりながら操作方法を覚えていきました。そして「ワープロ、買って」と両親にお願いして、ワープロを買ってもらいました。

家でもワープロをいじくり、学校で習ってきたことを復習しながら、「もっと覚えたい。すべての機能を覚えてマスターしたい」と、さまざまな機能を覚えていきました。選択の授業で習っていましたが、基本的な機能を教わる程度でしたので、ほとんどは独学で覚えました。

僕はワープロを使い始めてから、同じ漢字を繰り返し入力して文字の形で覚える独自の方法で漢字を覚え始めました。そして、だんだんと少し長い文章を書けるようになっていきました。しかし、以前にも書きましたが、言語障碍のために自分の発音する文字をそのまま入力していたため、正しい漢字や正しい日本語が出てこなく、苦労することとなるのです。

その頃、パソコンが世に出始め、学校にも授業用で使うパソコン数台が置かれていました。ワープロを習いながら、「パソコンっていうものもやってみたいな」と思っていました。今のようにスイッチを入れれば使いたいソフトが立ち上がるわけではなく、自分でプログラミングを組んで動かすものでした。

高校3年生になり、ワープロを習っていた僕は、先生に「パソコンのプログラミング、勉強してみないか」と言われたのです。その言葉を待ち望んでいた僕は、ニヤリと笑い即興で「やります」と言って習い始めました。

パソコンを習い出したら、パソコンが欲しくなります。当時ウン十万円する高級品で、簡単に買えるものではありませんでしたが、「学校でパソコンを習ってるんだ。家でも覚えたいから、パソコン買って」と両親を説得して買ってもらいました。

僕は「プログラマーになろうかな。プログラマーだったらなれるかも」と甘い夢を持ちつつ勉強するものの、簡単な図形を動かす程度のプログラミングまでしかできず、はかない夢に終わってしまいました。

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有田憲一郎

有田憲一郎(ありた・けんいちろう)

1971年東京生まれ。72年脳性麻痺(まひ)と診断される。89年東京都立大泉養護学校高等部卒業。画家はらみちを氏との出会いで絵心を学び、カメラに魅力を感じ独学で写真も始める。タイプアートコンテスト東京都知事賞受賞(83年)、東京都障害者総合美術展写真の部入選(93年)。個展、写真展を仙台や東京などで開催し、2004年にはバングラデシュで障碍(しょうがい)を持つ仲間と共に展示会も開催した。05年に芸術・創作活動の場として「Zinno Art Design」設立。これまでにバングラデシュを4回訪問している。そこでテゼに出会い、最近のテゼ・アジア大会(インド07年・フィリピン10年・韓国13年)には毎回参加している。日本基督教団東北教区センター「エマオ」内の仙台青年学生センターでクラス「共に生きる~オアシス有田~」を担当(10〜14年)。著書に『有田憲一郎バングラデシュ夢紀行』(10年、自主出版)。月刊誌『スピリチュアリティー』(11年9・10月号、一麦出版社)で連載を執筆。15年から東京在住。フェイスブックブログ「アリタワールド」でもメッセージを発信している。

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