津和野「乙女峠」―殉教の記憶と償いの思いを未来へ(2)乙女峠の歴史と乙女峠まつり 山岡浩二

2015年10月15日10時53分 執筆者 : 山岡浩二 印刷
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津和野カトリック教会

乙女峠の歴史は、迫害から約20年後の1890(明治23)年、津和野を訪れた一人の神父によって新たな展開を見せ始める。フランス人のアマトゥス・ビリヨン神父だ。ビリヨン神父は、1868(明治元)年に来日(長崎大浦天主堂)し、主に西日本で布教活動を行っていた。赴任先の山口から津和野入りしたビリヨン神父は、町内の旅館に投宿し、その旅館の主人らの協力を得て、光琳寺跡などの調査に着手した。キリスト教徒迫害から20年近く経過したこの頃は、津和野の迫害事件は既に風化し始めており、住民にもその場所がはっきり分からない状況だった。しかし、このビリヨン神父の津和野訪問が、その風化を食い止め、津和野において今日のように「乙女峠」が町民や観光客に愛される場所となる第一歩となった。

ビリヨン神父は、翌年にも再び津和野を訪れた。この時は、津和野で迫害を受けた一人の女性を同行し、彼女の記憶を頼りに迫害の舞台となった光琳寺跡を訪れた。初めは曖昧だった女性の記憶も徐々によみがえり、自分が押し込められた倉庫の跡や、氷責めの池の跡などを次々に見つけた。そして、二人は長い時間その場所にたたずんで涙と共に深い祈りをささげたという。

ビリヨン神父はまた、地元の人々に信仰の勇士たちのことを思い出してほしいとの一念から、講演会の開催を決断した。講演会は「光琳寺のキリシタン講演会」と題され、短い周知期間にもかかわらず千人収容の真新しい芝居小屋は満員になったという。神父は、日本におけるキリスト教迫害の歴史や西欧諸国と日本の関係史などに続いて、光琳寺での迫害の詳細を紹介した。聴衆の中には光琳寺の迫害を記憶している者も多く、熱を帯びる神父の講演が進むにつれて場内は緊張感で溢れた。

講演の最高潮は、聴衆に加わっていた元説得方本人に対して神父が発言を求めた時である。この会場に迫害に直接手を下した人物がいたことに驚くが、それ以上に、神父が壇上から彼の名を呼んで、「真実の承認を求めた」ことには、さらに驚愕(きょうがく)させられる。これによって、会場が一瞬のうちに張り詰めた空気に包まれたであろうことは容易に想像できる。この場面は一見すれば、元説得方にとっては「針のむしろ」のようにも思えるが、実は、こうして多くの地元の聴衆の前で迫害の事実を当事者として認めたことによって、一種の免罪感があったのではないか。また、ビリヨン神父自身、「糾弾」の意味よりも、「肩の荷を降ろさせる」効果を意識したと解釈できるように思う。そして、これは迫害事件をある種「見て見ぬふり」を強いられてきた津和野の人々全員にも向けられた神父の「配慮」ではなかったのだろうか。講演が終わると、感動の拍手が鳴り止まなかったという。

ビリヨン神父は、その後も殉教者のための追福碑「至福の碑」の建立(1891=明治24年)、津和野カトリック教会の創立(1892=明治25年)、「信仰の光」記念碑の建立(1922=大正11年)などに次々に取り組み、殉教地「乙女峠」の発展とキリシタン追悼に尽力した。

ビリオン神父が「乙女峠の開祖」なら、次に紹介するパウロ・ネーベル神父は「乙女峠中興の父」と呼ぶべき存在ではないだろうか。戦後から現在に至る乙女峠の振興や整備、「乙女峠まつり」の基礎づくりなどに大きな功績を残したからである。

ドイツ生まれのネーベル神父は、1928(昭和3)年に来日し、広島司教区を経て終戦直後の1946(昭和21)年10月に津和野に着任し、以来1973(昭和48)年まで津和野カトリック教会で神父を務めた。着任直後から光琳寺跡でのキリシタンの信仰と殉教の象徴である「乙女峠記念堂」(乙女峠マリア聖堂)の建設に取り組み、1951(昭和26)年5月13日に献堂式の挙行に至った。以後、歴代神父や多くの信徒の手によって周辺が整備され、現在は観光客も多く訪れる聖地「乙女峠」となっている。

さらに、翌年5月11日、ネーベル神父は信者と協力して乙女峠記念堂の献堂1周年を記念する「乙女峠まつり」を挙行し、以後毎年実施されるようになった。1954(昭和29)年からは開催日が5月3日に固定され、現在では、新緑の美しいゴールデンウイークの津和野を飾る風物詩になっている。

まつりでは、全国から集まったカトリック信者数千人の行列が、津和野カトリック教会をスタートして乙女峠を目指す。列には聖母マリア像や津和野幼花園の園児も加わり、先頭が乙女峠に到着しても、最後尾はまだ教会を出発していないほど長い行列が厳かに町を練り歩く。全員が乙女峠に到着すると、殉教者の霊を慰めるために、乙女峠を埋め尽くした信徒による荘厳な野外ミサが行われる。

ネーベル神父は、津和野で信仰生活を続けるうちに日本への強い愛着を深め、名実ともに津和野人になりたいと帰化を決断し、1955(昭和30)年に帰化手続を完了した。帰化後の日本名には「岡崎祐次郎」を選んだ。「祐次郎」という名は、光琳寺跡で過酷な拷問によって14歳で殉教した少年「守山祐次郎」にちなんでいる。また、苗字(みょうじ)の「岡崎」については、乙女峠の丘(岡)へ通ずる信仰の道のイメージを込めて「岡崎」姓を選んだとの本人談がある。

このように乙女峠の殉教者のために信仰生活の全てをささげた岡崎神父だったが、1976(昭和51)年8月2日、たまたま姉の見舞いのために帰省していたドイツ・ムンスター市で永遠の眠りに就いた。訃報は瞬く間に津和野に届き、全ての町民が岡崎神父の突然の訃報に驚き、悲しみと感謝の意を表した。このことによって、キリスト教徒であるか否かにかかわらず、岡崎神父が深く町民に愛されていたことがあらためて証明されたのである。(続く

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山岡浩二

山岡浩二(やまおか・こうじ)

1956年、島根県津和野町生まれ。大学4年間を東京で過ごした以外は、全生涯を津和野で暮らしている。32年間勤めた津和野町役場を2011年に退職し、現在は郷土史や鴎外文学を研究。津和野町観光協会副会長、津和野の自然と歴史を守る会副会長。中国・浙江大学城市学院客座教授として、同大で年に1度日本文化などの講義も行っている。

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