第73回日本基督教団沖縄教区総会・議長総括全文(2) 竹花和成

2015年4月20日19時34分 執筆者 : 竹花和成 印刷

【海外の教会との交流とフィリピン台風被害救援支援】

韓国済州島(2013. 8. 7~10)で行われました「第2回日韓青少年修養会」に沖縄教区から3名(引率1名、中高生2名)が参加し交流を深めたことはたいへん喜ばしいことです。子ども世代からの交流は、言語や民族や人種を越えて大人社会の自然な交流へと、私たちを導いてくれることでしょう。

また、台風30号によるフィリピンの、特にレイテ島の被害は甚大なもので、その報道を見聞きするにつけ沖縄教区独自で救援支援を考えなければならないと判断しました。募金の呼び掛けを教区内諸教会諸伝道所にいたしました。

与那原にある宣教師館跡地は、キソール宣教師やフィリピン合同メソジスト教会との関係を歴史的にさかのぼって思い起こさせます。フィリピン合同メソジスト教会とも話し合いながら、フィリピン・沖縄・アジアを視野に入れた有益な跡地活用ができますよう作業委員会が立ち上げられています。作業委員会には、教区婦人会連合、しののめケアハウス、沖縄キリスト教センター、沖縄教区が参加し、委員会として作業していくことになりますが、教区婦人会連合の信仰者共同住宅構想、しののめケアハウスの保護施設、フィリピンをはじめアジアからの婦女子の相談窓口、アジアからの留学生のための宿泊施設、沖縄キリスト教センターの事業の多角化など、それぞれの構想が活かされるような作業になりますよう取り組んでもらいたいと願います。

経営、運営、活動のマネージメントが適切に可能となるようなインターナショナルな交流センターが実現されたらどんなに喜ばしいことでしょう。

【沖縄キリスト教団と沖縄教区の共時性】

沖縄教区は、歴史的にも内容的にも沖縄キリスト教団と重なっています。それゆえ、単に時系列で理解するだけでなく共時的にも理解されなければなりません。

2013年10月3日付の名護伝道所の区画整理事業に伴う財産の一部処分については、名護伝道所の役員会ならびに臨時総会の決議を経て行われましたが、財産所有権者は、沖縄キリスト教団となっていますので、法的当事者として、沖縄キリスト教団清算人である沖縄教区総会議長が、名護伝道所牧師、教区書記の立ち会いの下、法的書類の手続きを行いました。詳細は、常置委員会報告をご覧ください。

公的機関が行う公共事業には、市民個々人の賛否の意志が必ずしも反映されません。教会として、賛同しかねる区画整理事業にも強いられて協力しなければならない事態が生じます。名護伝道所にとって賛同しかねる区画整理事業に、土地の一部を提供しなければならないことも含めて苦渋の判断をお願いしたことについては、法的書類の手続きを行った者として、申し訳なく思っています。

【米軍海兵隊辺野古新基地建設反対について】

先の名護市長選において辺野古への移設、新基地建設を反対する稲嶺進氏が再当選(2014. 1. 19)されました。これは直近の民意が、自然に恵まれた辺野古湾岸を埋め立てて米軍海兵隊の新基地建設を目論む日米政府の計画に強く反対し拒否していることを表しています。

人口密集地の米軍海兵隊普天間基地の撤去に絡めて計画されている名護市辺野古沿岸を埋め立てての新基地建設は、日本全体の面積の0・6%しかない沖縄に在日米軍基地の74%を集中させている現状にさらなる負担を沖縄県民に負わせるものでしかありません。

自然を破壊し、しかも、耐用年数100年とも200年とも言われる半永久的新基地の建設は、太平洋戦争における地上戦の犠牲を強いられ、多くの残酷、残虐に傷つけられた歴史をもつ沖縄の人々を、将来にわたっても戦争の危険性のただなかに置くようなものだと思います。

積極的平和のためと詭弁を用いて集団的自衛権行使を可能にさせたいと目論む現政権が、特別予算をチラつかせながら懐柔策によって新基地建設受け入れを強いていく力をどのように増大させようとも、私たちキリスト者は、平和主義、非暴力主義を貫きながら愛と真実をもって否と言うべきときに否を発信していかなければならないと思います。

世界の識者が、辺野古新基地建設に反対する沖縄県民の反対行動に共鳴して、メッセージを発信していることが報道(2014. 1. 8「琉球新報」、「沖縄タイムス」)されていますが、私たち沖縄教区も世界の人々に、世界の教会やキリスト者に、声明を発信していくべきだと思います。

教会は社会活動団体ではないのだから、そのような取り組みに与する必要はないと考えるキリスト者も少なくないと思いますが、人権尊重、生命尊重、自然保護、非差別、平和主義、非暴力主義の見地から、“神の愛”と“隣人愛”を証しするキリスト教会またキリスト者が、何らかの反対声明を発信することは、信仰の道に適っていると思います。

【北村慈郎牧師免職の撤回を求めて】

北村慈郎牧師の教師免職処分無効訴訟は、最高裁へと進もうとしています。沖縄教区は、日本基督教団に距離を置いているものの、沖縄にある望ましい将来教会のあり方を模索している立場からも、見過ごしにはできないことがらだと思います。

プロテスタント教会の寄って立つべき諸原理は、聖書から導きだされた「神の義」「キリストのみ」「信仰のみ」「聖書のみ」「恩寵のみ」「万人祭司」でありますから、上記のことがらが問題にされるとき、プロテスタント教会として日本基督教団にあっては、プロテスタントの宗教改革的諸原理に照らして考察されるべきだと思わずにはいられません。

プロテスタントの理解によれば、「キリストと童貞マリアでなくキリストのみであり、恩恵と自由ではなく自由の創造的恩恵のみであり、信仰と業ではなく業が生まれる信仰のみであり、聖書と伝統ではなく神の事業を表現する唯一の証言としての聖書のみであり、一種の世俗的持続としての教会と神の国ではなく教会の期待の唯一の対象は神の国のみであり、信仰と理性ではなく知性を新しくすることのできるのは信仰のみである」(ロジェ・メール著『プロテスタント神学』白水社、1967年)と特徴付けられているように、私たちの教会や教団のあり方やキリスト者としてのあり方を宗教改革的原理によって省みていくべきだと考えます。しかも、プロテスタントの教会が遡るべきは、原点中の原点であるイエス・キリストの福音だと思います。

プロテスタントの神学では、カトリック的諸制度の「絶対」に対して、プロテスタントの諸制度にあっては「尊重」されるべきものにとどまるということが理解されるべきであろうと思います。

現在、教憲教規違反を理由に免職処分にされている北村慈郎牧師側が、日本基督教団の現状では、訴えを受け付けてもらえないとして、処分手続きの無効を裁判に訴えていることに対して、遠い沖縄からも応援したいと思います

日本基督教団側は、当該訴訟に関して、裁判所に対し、宗教的信仰的神学的内容を理由に裁判になじまないゆえ北村慈郎牧師側の訴えを却下するようにと要求しています。けれども、日本基督教団側が裁判所に提出した準備書面との関連で、免職の根拠として裁判に出された深谷松男氏の陳述(「乙47」号)の内容は、“なじまない”という言葉に反して、いかにも宗教的信仰的神学的内容ではないでしょうか。

「教団総会議長の勧告を聴かずに、未受洗者を聖餐に与らせることを敢えて行い続けた原告の行為は、① 聖餐を受けるに信仰を不要としてそのサクラメントとしての霊的な価値を損壊したこと、② それにより教会員の信仰を根本的に弱体化させる原因を作ったこと、③ それは主キリストの伝道と洗礼の命令を無視し、洗礼の意義を失わせ、伝道を無意味にしたこと、④ さらに現住陪餐会員という教会総会議員資格を曖昧にして総会の教会権能行使の基礎を崩したこと、⑤ 聖礼典を司る教師がこれを強行して教職制を混乱に陥れたこと、加えて、⑥ 「信徒の信仰指導」に当たるべき牧師の務め(教規104条(1)号)に違反し、若しくはそれを放棄して、主の教え(ヨハネによる福音書21:15以下)に背いたこと、さらには⑦ 教会総会の議長(教憲96条2項)として違法な議決を阻止する責務を負い、かつ阻止し得る権限をあたえられているにも拘わらず、それを怠ったこと等を勘案すれば、まさに重大な教憲教規違反であり、かつ教団の秩序を乱すことは甚だしいと言わざるを得ません。教師職を奪う免職という戒規の執行は、教憲・教規を中心とする教団の法と秩序に照らして適法・妥当というべきであります。

加えて、聖餐は教団の正教師である者だけが司ることができることになっています。(教憲第9条)。それだけに聖餐の違法な執行をし続けて改めない場合は、その戒規は教師の地位に直接関わってくるのは、当然であります。この場合の戒規処分の内容が最低限で免職であるのは、妥当と言わなければなりません」(「乙47」号) (「北村慈郎牧師を支援する会」発行文書2013. 12. 13別冊第2号より)

このような、東京神学大学常務理事、金沢大学名誉教授、宮城学院名誉理事である深谷松男氏が行った陳述内容は、陳述人が述べるように果たして妥当と言えるのでしょうか。当該陳述の宗教的信仰的神学的内容に関して言えば、世界の教会を批判するような内容ではないのかと危惧します。

当該陳述内容は、米国のディサイプル教会、合同教会で妥当するのか、個々の教会の判断によってオープン聖餐・フリー聖餐を受容している米国の合同メソジスト教会で妥当するのか、連盟系か同盟系か、また個々の教会の判断に任せる米国バプテスト派諸教会で妥当するのか。東西統一後のドイツのルター派、改革派、合同教会の諸教会で妥当するのか、新しい動き、試みとしてフリー聖餐を実施している教会を機関紙で前向きに紹介する聖公会に妥当するのか、と。

「宗派の違いはいぜんとして、キリスト者のすべてに開放された聖餐の実現を妨げている。いくつかの伝統においては、痛悔と和解の問題と並んで年齢制限が、あずかれる人を決めている。またべつのいくつかの伝統では、会食にあずかるのに、洗礼すら必要条件とされないで、むしろ〈聖餐〉は、福音的行為と理解されており、したがって、それにあずかりたいと願う未受洗者さえ、こころよくあずかることをみとめられる」と、ラルフ・F・スミスが『インタープリテーション 聖書と神学と思想の雑誌1994. 5 No. 27』の「聖餐の信仰と礼拝式」(p. 8)の中で論じています。また、「聖餐は未信者も含め、これにあずかる意志のあるすべての人に対してオープンであり、牧師もなにもいわない。そこに区別を設けようという意識はまったく感じられず、陪餐者を厳密に区別する日本の多くの教会の聖餐理解とのギャップに戸惑いを覚えた」(藤井創著『世紀末のアメリカとキリスト教』(新教出版社、1999年)と、著者がアメリカの神学校への留学と教会探訪の経験から書いています。

そもそも、日本基督教団は明らかに三十余派からの合同教会であり、それゆえ、その関連からも海外の諸教派諸教会と宣教協約や宣教協力を結んでくることができたのではなかったか。にもかかわらず、オープン聖餐フリー聖餐を批判しない、あるいは、容認している、そのような海外の教会を、① 「霊的な価値を損壊」する教会、② 「信仰を根本的に弱体化させる」教会、③ 「主キリストの伝道と洗礼の命令を無視する」「伝道を無意味に」する教会として断罪するように批判することができるのだろうか。④ についても、信徒数名でも第一種、第二種教会ゆえに教区総会などに正議員をだせるという既得権行使と設立基準との乖離状態をそのままにして、「教会権能行使の基礎を崩した」と果たして言えるのか。上記のような陳述が妥当性を持つというのであれば、海外の諸教派諸教会との宣教協約や宣教協力を早晩見直さなければならないことになりはしないだろうか。

エマヌエル・レヴィナスという思想家は、「他者の飢え―肉体的なものであろうと、パンであろうと―は神聖なものである。第三者の飢えだけがその権利を制限できる」と『困難な自由』の中で書いていますが、北村慈郎牧師が、レヴィナスの言葉にあるような「第三者の飢え」を未受洗者のなかに感じ取りそれに応えようとしたかどうかはわかりませんが、「第三者の餓え」に似た何かを感じて未受洗者聖餐を行ったとしたら、それはとてもすばらしいことだと賞賛したいし、いずれにしても教憲教規違反が目的ではないことは明らかではないでしょうか。

プロテスタントの教会では、教会制度においても教職制度においても聖礼典においてさえもカトリックのような絶対性はなく、常に神の前に謙虚に尊重されるべきことがらにとどまるものではないでしょうか。

沖縄の将来、教会について考えたとき、北村慈郎牧師の免職処分はとうてい受け入れられないことであり、日本基督教団の現執行部体制にまる投げしてすむことがらではないと思います。(続く:プロテスタント教会のこれからと沖縄

◼︎ 第73回日本基督教団沖縄教区総会・議長総括全文:(1)(2)(3)(4)

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