第73回日本基督教団沖縄教区総会・議長総括全文(3) 竹花和成

2015年4月20日19時34分 執筆者 : 竹花和成 印刷

【プロテスタント教会のこれからと沖縄】

宗教改革からまもなく500年を迎えようとしている今日、プロテスタント教会のあり方が問われているように思います。“聖書に帰れ”を象徴する「聖書のみ」をテーマに、聖書を通してイエス・キリストの福音の原点にまでさかのぼろうとしたプロテスタント教会が、宗教改革のなかで獲得した宗教改革的諸原理(テーマ)をあらためて学びなおすことが、今日のプロテスタント教会とってもとても大事なことであり必要なことのように思います。

宗教改革からの500年という歴史は、残念ながら、宗教改革的諸原理が、理想的に展開されたわけではなく、その都度の時代の力関係や、変化する時代状況、そこに渦巻く時代精神などからさまざまな影響を受けて、バラバラに変質させられていく歴史でもあったように思います。高く掲げられた宗教改革的諸原理にもかかわらず、諸原理全体の全体性をもって捉えることができなかった500年と言ってもよいかも知れません。「信仰のみ」は、「神の義」「恩寵のみ」と切り離されて強調され、プロテスタント的真理の内実はいつのまにか「信仰義認」から「自己義認」へと変質してしまわなかったでしょうか。気がつけば、プロテスタント教会もプロテスタントのキリスト者も、利己的自己中心主義に陥り、自己義認を繰り返しながら自己膨張主義にまで至ってしまったと言えないでしょうか。「聖書のみ」も、「神の義」や「恩寵のみ」から切り離されて近代主義が至上のものとなり、「万人祭司」理解も例外ではなかったと思います。「万人祭司」理解は、そもそも、救済職階制度教会の否定とともに「聖徒の交わり」という教会理解を再びプロテスタント教会に取り戻させたはずだったのですが、歴史的にはよく機能させられなかったように思います。近代のドイツをみても、ドイツの福音主義教会の大勢は、君主制の庇護の下での安定性を強く望み、民衆が求める民主的共和制を理解しようとしなかったし、国家と教会が分離されることを嫌いました。第一次世界大戦後のヴァイマール共和国の民主的共和制が短命に終わることを望み、強い君主的指導者を求めたため、容易くヒトラーのナチズムに飲み込まれてしまいました。「キリストのみ」を告白し抵抗した告白教会のような一部の教会を除いて、多くの福音主義教会が過ちを犯しました。ルターが農民を弾圧する側に立ってしまったように、近代のドイツ福音主義教会も大きな過ちを犯した歴史を持っています。

佐藤敏夫著『日本神学史』(ヨルダン社、1992年)には、1907年から1945年にかけての日本のキリスト教を、福音的キリスト教(高倉徳太郎他)、社会的キリスト教(中島重他)、弁証法的神学(熊野義孝他)、日本的キリスト教(金森通倫他)に分け、その中で日本的キリスト教をマイノリティ・グループであるとして、「それによって主流の教会は、とくに影響を受けることはなかった」(p. 83)と記していますが、このような見方は歴史の真実を正しく捉えていない、と森野善右衛門関東教区巡回牧師が論じています(『上毛通信第60号』2011. 3. 1)。森野善右衛門牧師は、「主流派」と見られる教理的に正統主義的なキリスト教(たとえば日本基督教会)もまた、その大勢において日本的キリスト教(当時は「日本基督教」を標榜した)の流れに巻き込まれ、戦争協力に傾いていったと見るべきではないか、と論じています。分類分けして、「教理的に正統主義的な教会は特に影響を受けることはなかった」と佐藤敏夫氏のように簡単に自己義認的に結論付けてしまうこと自体、すでに宗教改革的原理をバラバラに切り離して「信仰のみ」を無自覚にも「自己義認」に変質させていることにならないのか、と問いたいと思います。

宗教改革500年を前に、宗教改革的諸原理の本来的全体理解を取り戻すために歴史的にさかのぼって検証しながら、今日のプロテスタント教会に属する私たち自身を考えていかなければならないのではないかと思います。

神に向き合い、キリストに向き合い、聖霊の働きに向き合い、導かれながら、隣人に向き合い、歴史に向き合い、社会に向き合うなかで、信仰者のあり方を問いながら、プロテスタント教会としての沖縄の教会のあるべき姿を展望したいと思います。

その際、他者を同類化させ同質化させていくようなパワーゲームのような霊性(悪しきアニミズム)によってではなく、他者を他者として他者の他者性を相互に尊重し合えるような隣人愛を教えるところの聖書が教える、創造主なる神から注がれる霊性、救済主なるキリストから与えられる霊性、真の交わりを教える聖霊なる主から与えられる霊性によって、沖縄のキリスト者、沖縄にあるキリスト教会としての課題に取り組んでいくことができるような歩みがなされてほしいと思います。

【教団宣教基礎理論改定への危惧】

現在、日本基督教団の現執行部体制が、教団宣教基礎理論の改定作業を推し進めようとしていますが、彼らの「改定宣教基礎理論のまえがき」を読んで、問題を感じ、懸念が表明され始めていることに私たちも目や耳を傾けたいと思います。

『KYOUDAN JOURNAL 風Vol. 43』(2013. 12. 16)に、当該「改定宣教基礎理論のまえがき」を紹介しながら、戒能信生牧師が次のように適切に批評していることがわかります。

当該「改定宣教基礎理論のまえがき」には、「ことに、教団は1969年のいわゆる『万博問題』以来、福音理解においても、宣教理論においても、はなはだ大きな混迷と混乱を経験し、その中で教勢も著しく低迷し続けています。その混乱の原因の一端は、先の『宣教基礎理論』において、『神との和解』という垂直的次元への言及が著しく欠落していたからだと考えられます」、さらに、「たしかに、『内向き』となる傾向は避けなければならないでありましょうが、しかし、キリストの体としての教会にとっては、内向きや外向きである以前に、神との垂直的関係において教会が教会であるかが、常に優先され、厳しく問われなければなりません」とあります。

これに対して、戒能信生牧師は、『1963年 宣教基礎理論』には、「父なる神は主イエス・キリストをつかわして、世をご自分と和解させました。主イエス・キリストは私たちの人間関係の間に中保者として立ち、聖霊の力によって、私たちが隣人に対して人格的関係を挑むこと、すなわち和解の務めを果たすことのできる者としてくださいます。宣教のわざとは、このような宣教の父なる神みずから、キリストにおいて聖霊によって和解のみわざをなされることに信頼をもち、私たち隣人にたいして人格的関係を挑むことにほかなりません」と認められてあり、非常にバランスよく作成されているではないか、にもかかわらず「『神との和解』という垂直的次元への言及が著しく欠落している」と理由付けて改定を正当化しようとしていることが果たして妥当といえるのか、と問題視しています。

『旧約聖書解釈学の諸問題』(日本キリスト教団出版局、1975年)の「訳者あとがき」で、旧約学者ベスターマンの論文に触れて、「ベスターマンの論文は啓蒙主義の時代以後の、旧約聖書解釈をめぐる問題を歴史的に概観し、歴史を捨象する正統主義の時代も、神の言葉を歴史の中に解消する歴史主義およびそれに基づく宗教史学派が支配する時代も過ぎ、今日における基本的な問題は神の言葉と歴史との関係であることを指摘する」(p.288)と記してあります。本論文集の中核をなしているのは1952年53年に編集されたものから取られた論文だと書かれてありましたが、第二次世界大戦で焦土化されてまもない、傷がいえないヨーロッパのドイツで編集されたものだということに照らしても、神の言葉と歴史が反省的に問題にされなければならないのだと指摘されていることの意味を考えさせられるように思います。

エルンスト・ファイル著『ボンヘッファーの神学』(新教出版、2001年)の「はじめに」の書き出しには、「福音主義神学は、だいたい19世紀半ばからカール・バルトに至るまで潜在的な『無世界主義』によって支配されてきた。・・・キリスト教神学は、第二次世界大戦後になって初めて、『この世』という特殊近代的テーマに対して、初めから無視してかかるとか拒否的態度で接するということがなくなり、そうしたテーマを肯定的にも掲げるようになった」と書かれています。

ボンヘッファーは、現実性ぬきに神の啓示に向かおうとするなら、神の啓示の現実性を抽象的な宗教的イデーに置き換えてしまい、現実性に対して閉ざしてしまう、と論じていますし、「抽象的思惟への最も危険な逆行である」というボンヘッファーの言葉は、戦前回帰への警告として聴かなければならないのではないでしょうか。

また、ヒラリー・パトナム(ハーバード大学哲学教授)が自著『導きとしてのユダヤ哲学』(法政大学出版、2013年)のなかで、「ローゼンツヴァイクは神の愛はいわば『水平的次元』なくしては『垂直的次元』をもつことができないと主張する。また、他の同胞たちへと向かう、方向をもたない『神の愛』は実際のところ神の愛ではまったくない」(上掲p. 79)と論じていますが、聖書に照らしても、もっともなことだと言わざるを得ません。

改定を目論んでいる人たちには、1963年『宣教基礎理論』が、社会的政治的色彩が強く信仰的でないという理由で改定作業をしたいのだと思いますが、“神を愛し、人を愛し、敵をも愛しなさい”と教えたイエス・キリストの福音に照らしても、垂直的次元と水平的次元が同時に成り立たないような宣教理論は求められるべきではないと思います。社会も政治も人間の条件に不可欠なものであり、社会も政治も自己と他者の共生の問題なのですから。

むしろ、これまでの神学が、正統主義であれ自由主義であれ、あまりにも垂直次元的に神学し、具体的世界を神学することや具体的世界に関わることを欠落させてきた結果、歴史的には文化や文明や時代精神に安易にたやすく流されてきたのではないでしょうか。それゆえに、正統主義であれ、自由主義であれ、これまでの神学は、人種差別的であり、身分差別的であり、文明優越主義的差別的であり、植民地主義的であり、抑圧搾取的、排他的全体主義的、暴力的、聖戦主義的(戦争正当化主義)であったのではないか、と考えさせられます。

私たちは、右傾化の危うさを感じる昨今、これまでを深く反省しつつ懺悔しつつ、キリストにあっていかに神の愛によって隣人や社会や世界に関わるかを方向付けるような宣教理論を展開すべきではないでしょうか。

「ほとんどの教会は自分たちと違う考え方や外見をもった人々から自分たちを守るための教理的壁を作って、その満ち足りた場所に腰を落ち着けている。しかし、真実の教会は人々のうめき声のきこえる人生の崖っ淵ともいえるところに立ちつづけるのだ」(Cecil Williams,No Hidding Place:Empowerment and Recovery for Our Troubled Communities, San Francisco:Harper Collins,1992,24)と 藤井創著『世紀末のアメリカとキリスト教』(1999年)にありますが、このような言葉に刺激されて自分たちの教団や教会を省みて、私たち自身を反省するような促しを受けたいと思わずにはいられません。

2013年10月30日から11月8日まで韓国釜山において開催されたWCC第10回釜山総会の報告のなかに印象深い言葉がありました。ある記者の報告には、《世界バプテスト連盟(BWA)総幹事は「様々な教会が存在しているこの世界に、自分と同じ教会だけを求めようとする。そうした姿勢に、教会のなかでさえ人種差別が頭をもたげていることが分かる」と指摘し、「貧困と搾取、病気という世界的な状況を改善するためには、教会がその自己中心性を抜け出さなければならない」と語った》とありました。

別の記者の報告には、「これまでにWCCは、南アフリカの人種差別と戦い、世界の女性が直面している強姦と性奴隷問題の解決を促し、そして、韓国の民主化にも貢献した」とありました。また、「WCCと世界福音同盟(WEA)やローザンヌ福音運動(ローザンヌ運動)などとの間でネットワークを構築し、そのネットワークにペンテコステ系の諸教団も積極的に参加できるような配慮をしなければならない」という言葉もありました。世界の教会のあり方が問われているように思います(Touhoku HELP News Letter No.5)。

また、20年間米国長老教会(USA)の協力宣教師として日本の大学と神学校で教えた体験から語るトマス・ジョン・ヘスティングス師の言葉が『東北大学実践宗教学寄付講座ニュースレター第4号(2013. 12. 1)』に掲載されていました(この講座は、日本基督教団からも資金提供されているものではなかったでしょうか)が、そこには、《日本の諸宗教は、「家族」(伝統的に氏子と檀家)か「故人」(近代西洋思想やキリスト教の影響)という「私的領域」において歓迎されているが、「社会」や「政策」という「公的の領域」からは排除されているようです。この傾向は、おそらく国家神道主義時代への反省であると同時に、米国憲法にも讃えられている「政教分離説」の日本独自の解釈にもよるでしょう。しかし、現代社会を生き抜くために、このようにして宗教の範囲と役割を「私的領域」のみに制限することが果たして善いのかという呻き声が、3・11のような大震災と大人災の後にはっきりと響き続けていると思います》と語られていました。まさに、日本基督教団が聴くべき言葉ではないでしょうか。福音主義正統主義を認じる人たちが、社会派か福音派かと批判的に分けることの無意味さを感じざるを得ません。

世界の教会の置かれている状況は多様ですし、世界の教会自体が多様です。そのような多様性から学ぶべきだと思います。また、すでに諸宗教の対話の時代に入っていますから、他の宗教からも大いに学ぶべきだと思います。歴史的に大量生産大量消費を牽引したキリスト教や植民地主義を後押ししたようなキリスト教、人種差別を容認し続けたキリスト教、自己保身にまい進するキリスト教、自らを硬直化させるキリスト教には、誰も真の興味を示すことはできなくなるだろうと思います。謙遜に謙虚に自らの宗教性や霊性を見直す時代に入っているのですから。(続く:教団と伝道

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