1.官の教育
奥邃(おうすい)がアメリカより帰国したのは1899・明治32年8月1日である。1871年1月23日(旧暦では明治3年12月3日)森有礼の少弁務使(代理公使)としてのアメリカ赴任に際し、森に請われ随行してから実に28年ぶりの帰国であった。その2日後に「文部省訓令12号」が出される。「一般ノ教育ヲシテ宗教ノ外ニ特立セシムルハ学政上最必要トス依テ官立公立学校及ビ学科課程ニ関シ法令ノ規定アル学校ニ於テハ課程外タリトモ宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗教上ノ儀式ヲ行フコトヲ許ササルヘシ」というものであった。これは主にキリスト教学校に向けて発せられたものだった。1894・明治27年7月16日の日英通商航海条約によって、領事裁判権が廃止されることになったが、その施行日が1899年7月17日であった。当時のことばでいえば外国人の「内地雑居」に対抗するために「文部省令12号」が出された。日本における官の教育の性格がよく表れている。一見、近代公教育の中立性(世俗性)にかなっているようだが、当時の天皇制に抵触するものを禁止している。奥邃の時代における官の教育は、天皇制国家に奉仕することに収斂される。
(1) 学制
日本においても近代国家の体裁にともない国民のすべてを対象とする国民教育制度が作られていく。「学制」が発布されたのは1872・明治5年であるが、そこに見られる「学問は身を立るの財本」という考えは近代の個人主義的、功利主義的教育観に基づきつつ、同時に国家の富国強兵・殖産興業を前提あるいは目的とするものであった。
西欧において近代公教育が制度的に確立するのは19世紀後半であったが、そこに見られる原則は義務性・無償性・中立性(世俗性)であった。
「学制」を見るに義務性(納税・兵役と同じ意)は同じだが、学校教育に掛かる費用は民費負担を原則とした。無償性の原則がはじめて成立するのは1900・明治33年の第三次小学校令まで待たねばならない。また、日本の近代公教育は原則として教育基本法ができるまでは中立性(世俗性)も維持されなかった。
(2) 教学聖旨
明治10年代というのは、啓蒙思想、功利主義、社会進化論、自由民権、キリスト教といろいろな思想や運動が混沌としていた。その状況にあって儒教主義的皇国思想を基本理念とする「教学聖旨」(「教学大旨」と「小学条目二件」より成る)が1879・明治12年8月に出された。そのうちの「教学大旨」には「教学ノ要、仁義忠孝ヲ明キラカニシテ、知識才芸ヲ究メ、以テ人道尽クスハ我祖訓国典ノ大旨、上下一般ノ教トスル所ナリ」と述べ、また明治維新以後の欧化主義を批判して「終ニ君臣父子ノ大義ヲ知ラサルニ至ランモ測ル可ラス」といっている。
「小学条目二件」には「幼少ノ始ニ其脳髄ニ感覚セシメテ培養スル」ため「古今ノ忠臣義士孝子節婦ノ画像写真ヲ掲ゲ」「忠孝ノ大義ヲ第一ニ脳髄ニ感覚セシメンコトヲ要ス」とある。
この「教学聖旨」は後の「教育勅語」(1890・明治23年)の雛型となるものである。
(3) 帝国大学令(小学校令・中学校令・師範学校令)
1879・明治12年の教育令、翌13年の改正教育令を経てこれらの令が制定される。学制以降の学校整備の一応の完成である。
まず1886・明治19年3月に帝国大学令が制定される。第1条「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とある。これは教育とは国家発展のために企画されるべきだという森有礼の考えにしたがった条文である。日本における官の教育の白眉であろう。森はまた1889・明治22年1月に直轄学校長に対する訓示において、帝国大学の教務に関し「学術ノ為メト国家ノ為メトニ関スルコトアラハ、国家ノ為メノコトヲ最モ先ニシ最モ重セサル可ラサル」と述べ、諸学校においても「学政上ニ於テハ生徒其人ノ為メニスルニ非スシテ、国家ノ為メニスルコトヲ終始記憶セサル可カラス」と述べている。いわば「はじめに国家ありき」である。学問には自由と自律が不可欠であろう。真理探究が国家・天皇によって限定される。また、生徒その人の為にといういわば「はじめに個人ありき」も疎外されている。
(4) 大日本帝国憲法
1889・明治22年2月11日公布。ここでは3つの条文に触れる。「第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」「第28条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」「第29条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」
要は第3条にあろう。これにいかに対応するか。学問も教育も宗教も、すべてがここに収斂され、すべてがここで規制される。後に見るように奥邃はこれを見事に相対化し超えている。
(5) 教育勅語
1890・明治23年10月30日発布。天皇が国をはじめ、臣民をいつくしみ、臣民は忠孝の道を守り、心をひとつにして天皇に仕えてきたこと、それが我が国の国体のうるわしさであり、教育のもとづくべきところもその国体のうるわしさにある。だから「爾臣民」は父母に孝行し、兄弟夫婦仲良くして、友達と信じあい…「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」ことが求められる。
神聖にして侵すべからず、という天皇の言葉である。これが価値の源泉であり絶対的価値であり、絶対的真理となる。学問も教育も宗教もすべてここに帰着しそこを超えることができない。巨大な壁でありブラックホールである。
帝国大学令と教育勅語が奥邃の時代をつらぬく官の教育の代表である。
*続きはこちら。本文は『公共する人間5 新井奥邃 公快共楽の栄郷を志向した越境者』(東京大学出版会、2010)より転載しています。
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播本秀史(はりもと・ひでし) 1951年生まれ。明治学院大学文学部教授。著書に『新井奥邃の人と思想 人間形成論』(大明堂、1996)、『聖書と日本人』(分担執筆、大明堂、2000)、『日本の教育を考える 現状と展望』(共編著、学文社、2010)など。明治学院大学キリスト教研究所所長であり、教育学、道徳教育、宗教教育、教育哲学を専門としている。
*新井奥邃(あらい・おうすい)について
1846(弘化3)年5月5日生まれ、1922(大正11)年6月16日歿。
日本の思想界では、主に明治時代後期から大正時代にかけて活躍したキリスト教思想家、教育者である。若き頃から秀才として知られ、江戸遊学を行い、戊辰戦争で箱館(函館)に向かい、箱館ロシア公使館付司祭ニコライから洗礼を受けていた澤辺琢磨(坂本竜馬の従兄で、後に初の邦人ハリストス正教会司祭をなった人物)を紹介され、1869年2月頃、澤辺を通してニコライと3回会見し、大いに啓発されハリストス教の教理に心服した。その後新井はキリスト教の教義を探究することを熱く説き、1870年の3月ころよりキリスト教を学ぶ志のある者たちの来函を促し、後の仙台ハリストス正教会の基礎を築いた人物らが聖書を学んだ。
その後渡米し、1871年1月ニューヨーク州北西部エリー湖畔ブロクトンのトマス.L.ハリスの新生社に入り(75年から加州サンタ・ローザへ)、その一員として28年間を過ごした後、帰京した。その後4年の流寓生活をへて謙和舎を与えられる。その間に『日本人』『女学雑誌』『聖書之研究』等に警世の文を発表した。田中正造や高村光太郎にも多大な影響を与えている。
新井は生涯独身を貫き、いかなる宗派にも属さず、一切の写真や肖像画を残さず、当時の時代において特異なキリスト教伝道者として知られている。
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