ものすごい映画だ。言葉が出てこない。振り絞るようにして言葉を探しても、やはり出てこない。こんな体験は久しぶりだ。寒い季節に鑑賞したにもかかわらず、汗が滴り落ちる感覚が全身にある。それほど観ていた私が緊張していたのだろう。
そして誰かに話したくなる。映画の内容ではない。映画を通して自身の内面から掘り起こされた「恐れ」や「戸惑い」についてだ。話さずに自分の中に閉じ込めておくことができない。そのままだと圧がかかり過ぎて、心が壊れてしまうかもしれないからだ。
試写を鑑賞して1カ月余りがたつ。しかし、その余韻はいまだに残っている。恐らくこの映画は私の中に生涯とどまり続けるだろう。そんな一作に出会ってしまった。2023年が始まってまだ1月余りだというのに――。
映画「対峙」は会話劇である。主要登場人物は4人。2組の夫婦のみ。前後に登場する人物たちは、物語に添えられた副次的な存在でしかない。とはいえ、作品全体を象徴するような音楽がさりげなく奏でられる場面など、4人が出会う場所の特質を端的に伝える役割を担っているという意味では、重要である。しかし、それらも全てこの4人の会話が始まると一瞬で色あせてしまう。
観客は、前情報を入れずに鑑賞するなら、どうしてこの2組の夫婦がそこにやって来たのか、その理由は分からない。そこから始める方が「正しい鑑賞法」だろう。言葉の端々から次第に「なぜ」が分かるようになっている。
ぎごちない会話がスタートし、表面的なあいさつが交わされる。この時から、彼らの中にマグマのような抑えきれない感情が動き出す。しかし、すぐには表には現れない。目がうつろになり、唇が震え、そして一瞬にして相手を射抜くような殺意に満ちた目に変わる。そしてここから、この映画のクライマックスにして最大の見せ場が始まる。開始15分からラストまでほぼ1時間半、スクリーンに映し出されるのはこの4人のみである。
この作品は、今も昔も米国社会を騒がせている「無差別銃乱射事件」を題材にしている。もはやどの事件をモチーフにしたとは言えないくらい、米国では銃器による無差別殺人が頻発している。その中でも特にショッキングだったのが、1999年に米西部コロラド州のコロンバイン高校で起こった銃乱射事件である。監督のフラン・クランツは、この事件から受けた影響をこう述べている。
コロンバイン高校のニュースを聞いたとき、⾃分がどこにいたのかをはっきりと言うことができます。(その時にいた学校の)キャンパス内を見回し、想像を絶する出来事を想像しました。自分もいじめられた経験があったので、ものすごく動揺しました。コロンバイン高校の銃撃犯たちと基本的に同じ年代だったこともあり、彼らや他の⽣徒たち、犠牲者たち、その高校のコミュニティー全体と自分自身を比べ、恐ろしくなりました。
登場する一組目の夫婦は、事件の遺族である。彼らは同級生の銃乱射によって最愛の息子を殺された。もう一組は事件の犯人である高校生の両親である。彼らの会話から分かることは、犯人は同級生を殺害したのち、自ら命を絶っている。
この設定が分かるまでが、会話の4分の1程度である。ここから彼らは、殺害された少年がどんな男の子だったのか、そして事件を引き起こした少年がどんな子であったかを語り合うことになる。
この会話がスムーズに進むはずがないことは、一般論としても分かるだろう。互いに腫れ物に触るような戸惑いを抱えながら、言葉だけが紡ぎ出されていく。しかし、一方が不用意に発した「(本人にとっては)何気ない言葉、フレーズ」が、相手の心を深く傷つけてしまうとき、一気にマグマが噴出する。いつしか非難の応酬となり、会話は途切れてしまう。この沈黙が観る者の心をギュっと締め付ける。
本作では、加害者の遺族もまた深く傷つけられていることを真正面から描いている。この描写は、現在の日本では、息子たちが回転ずしでいたずらしたことで多大な代償を負わされることになった親たちの心情にも似ていると思わされた。次元は異なるが、「こんな子を生み出してしまった」という慙愧(ざんき)の念には相通じるものがあるだろう。
日本では米国並みの銃乱射事件は起こり得ないだろうが、本作の加害者の両親のような状況に、いつ何時私たちが陥るかもしれないということは、想像に難くない。つまり、「どこでも、いつでも起こり得る悲劇」を描いているともいえよう。
しかし、物語の後半には希望も見え隠れする。実は、この話し合いの場は教会の一室なのだ。その部屋の真ん中には、一切言葉を発さず、押し付けがましいこともしないが、確かに「十字架」がある。そして、真の意味での「赦(ゆる)し」とは、一体誰のためのものなのかが明らかになっていく。
観終わって、こんな聖句が心に浮かんだ。
あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。(マタイ19:19、新改訳2017)
昨今は、この聖句の解釈が現代的にシフトしてきている。かつては「自分を愛することは当たり前」であった。しかし現在、なかなか自分を真の意味で愛せる者が少ないといわれている。つまり、「自分なんて嫌い」「こんな自分には愛される価値はない」と思う人が増えてきているというのだ。そうであるなら、隣人を真に愛せるのは、自分を愛し、健全なセルフイメージを抱いた者ということになる。そう捉えると、この聖句はまた違った輝きで私たちに迫ってくることになる。
本作は、まさに「親として失格」と感じている2組の夫婦の葛藤の物語である。例えて言うなら、彼らが「対峙」しているのは、自分たち自身である。まるで鏡の前で自分たちの姿を見ながら泣き、叫び、そして葛藤している。
加害者の夫婦は「こんな子を生み出してしまった自分たちは親失格ではないのか」という思いと、それでも「息子を愛していた」という思いの間で葛藤している。被害者の夫婦は「息子を守ってあげられなかった」という忸怩(じくじ)たる思いに囚われ、息子に申し訳ないと痛感している。
彼らがその状況から抜け出す道はどこにあるのか。そんな重い問いが本作の底流に存在している。そして、すっきりとした解決など決してあり得ないが、それでも一歩を踏み出す希望が、その「話し合いの場」から、また彼らの部屋の真ん中にある「十字架」から、そこはかとなくこぼれ出ているのではないかと思わせる演出になっている。ここに監督のメッセージが込められているのだろう。
本作は「キリスト教伝道映画」ではない。そんな上から目線では語られない「現実の問題」を扱っている。クリスチャンであろうと、そうでなかろうと、全く同じ立場で語り合える「触媒となる良質な映画」である。一人でも多くの人にご覧になっていただきたい。
映画「対峙」は2月10日(金)から、TOHOシネマズシャンテほかで全国公開される。
■ 映画「対峙」予告編
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