パウロとフィレモンとオネシモ(26)「洗礼による以前と今」―キリストと共なる復活― 臼田宣弘

2020年10月15日09時12分 コラムニスト : 臼田宣弘 印刷

今回は、コロサイ書2章11~13節aを読みます。

11 あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、12 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。13 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。

本コラムは、「コロサイ書はパウロの名義によって書かれた擬似書簡である」という立場で書き進めています。しかし、コロサイ書の執筆者はパウロの教えをよく知るパウロの弟子であり(今までお伝えしているように、私はフィレモンが執筆者だと考えています)、「パウロの言葉」としてこの手紙を書いているわけです。しかしながら、「パウロの教えを継承しながらも、発展的に執筆している部分」もあり、その一つが、第17回でお伝えした「真性書簡の時間軸を中心とした終末論に対する、空間軸を中心とした終末論」です(『新版総説新約聖書』収載、永田竹司著「コロサイの信徒への手紙」)。

今回の箇所では「洗礼」が取り上げられていますが、コロサイ書が伝える「洗礼」は、真性書簡と少し違いがあると言われています(フェルディナント・ハーン著『新約聖書神学I上』448~450ページ、エードゥアルト・シュヴァイツァー著『EKK新約聖書注解XIIコロサイ人への手紙』126~127ページ、いずれもコロサイ書擬似書簡説に立つ新約聖書学者の著作)。真性書簡の中で洗礼について書かれている代表的な箇所であるローマ書6章のうち、4~5節を見てみます。

4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

真性書簡においては、洗礼とはキリストと共に葬られることですが、私たちの復活は「あやかれるでしょう」とされており、将来つまり終末のことなのです。これに対してコロサイ書2章12節には、「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」とあり、洗礼とはキリストと共に葬られることであると同時に、私たちは「今」すでに復活させられているとされています。これについて、上記『EKK新約聖書注解XIIコロサイ人への手紙』において、エードゥアルト・シュヴァイツァーは以下のように述べています。

それに対してコロサイ人への手紙二章では逆に、いつか天への道を塞いでいる「諸元素(筆者注=新共同訳では2章8節および20節の「支配する霊」)」のために、キリストにまで昇ることができないのではないかという教会の不安に対処することが問題である。それ故決定的なことは、すべてすでに生じたということ、いかなる元素ももはや被挙された方(筆者注=天に上げられたイエス・キリストのこと)への通路を防ぐことができないということが強調されなければならない。(126ページ)

コロサイ教会などに入り込んできた間違った教えが持つ「世を支配する霊(諸元素)に従うこと」によって、教会の人たちが天におられるキリストに目を上げることができない状態であるため、世を支配する霊(諸元素)という障害物を取り除かねばならないという意味です。3章1節には「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」とありますが、天におられるイエス・キリストに目を向けるために、「洗礼によってキリストと共に復活させられている」ということの強調がなされているのです。コロサイ書では、真性書簡における「将来の復活」ではなく、洗礼を受けた者が「今」すでに復活させられ、「罪の中に死んでいた者が、生かされている」(13節a)ことが強調されています。

ところで、上記『新約聖書神学Ⅰ上』において、フェルディナント・ハーンは以下のように述べています。

1章21~23節に見られる「かつて」と「今」(ποτέ~νυνὶ)の図式は受洗者の根本的に変えられた存在にかかわる。(449ページ)

第21回で「1章21~22節での『キリストにあっての転換』は、『以前(ポテ / ποτέ)』は神から疎遠であったコロサイ教会の人たちが、『今や(ヌニ / νῦνι)』キリストにあって神と和解し、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者、すなわち罪の赦(ゆる)しを受けた者として、歩んでいるということです」とお伝えしましたが、それは洗礼の前後を意味していることが明らかになります。パウロにとっての受洗後の復活とは「将来(終末)」のことであるのに対し、コロサイ書では「今」のことなのです。真性書簡であるフィレモン書をお伝えしていた第10回では、「パウロにとっての以前(ポテ / ποτέ)~今(ヌニ / νῦνι)は、人生において、キリストにあっての大きな転換を意味します」とお伝えしましたが、擬似書簡のコロサイ書での「以前~今」は、受洗の前後を意味しているのです。

パウロにとって、洗礼とは、キリストと共に過去の自分に死ぬという[信仰]のありようと、将来(終末)の復活への[希望]です。そして、キリストにあっての大きな転換がなされた「今」は、[愛]の実践こそが大切なのです。冒頭でお伝えしましたように、コロサイ書は「真性書簡の時間軸を中心とした終末論に対する、空間軸を中心とした終末論」を述べているのですが、終末とは[希望]のことであり、コロサイ書が空間軸を中心とした、すなわち「今」の[希望]を述べているのは、「洗礼によって『今』すでに復活させられていることを強調しているからだ」と私は考えています。(続く)

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臼田宣弘

臼田宣弘(うすだ・のぶひろ)

1961年栃木県鹿沼市生まれ。80年に日本基督教団小石川白山教会(東京都文京区)で受洗。92年に日本聖書神学校を卒業後、三重、東京、新潟、愛知の各都県で牧会。日本基督教団正教師。2016年より同教団世真留(せまる)教会(愛知県知多市)牧師。愛知牧師バンドのメンバー(キーボード担当)

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