太平洋の橋―新渡戸稲造の生涯(最終回)十字架を負って

2020年1月29日19時27分 コラムニスト : 栗栖ひろみ 印刷
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1931(昭和6)年の年が明けた頃から、日本軍が植民地であるアジア諸国に侵出し、現地での傍若無人な振る舞いが取りざたされるようになった。これに対して各国から日本に対する非難が強まりつつあったので、新渡戸は心を痛めつつ、講演や著述によって軍国主義の危険性を訴えたが、相変わらず日本国民は彼を非国民呼ばわりし、耳を貸そうとしなかった。そして翌年、ついにあの「松山事件」が起きたのである。

1932(昭和7)年2月。新渡戸は松山に講演に行った。その時泊まっていた旅館に各新聞社の記者たちが押しかけてきた。「先生。今後の日米関係はどうなるのでしょうか?」一人の若い記者が尋ねた。

新渡戸は何度も松山に足を運んでおり、その記者とも顔見知りだったので、微笑しつつその耳にささやいた。「ねえ、きみ。これはオフレコにしてくれないか? 頼んだよ」。そして語り出した。記者は一言も聞きもらすまいとメモを取った。

「私は思うのだが、このままでは日本は滅びてしまう。この国を滅ぼすのは軍部の人たちだ。特に恐ろしいのは、人間性を失った軍人たちだよ」

ところがこの後、不祥事が起きたのだった。そこへ別の新聞社の記者が遅れてやってきた。この記者は、新渡戸が「オフレコにしてほしい」と言うのを聞いてなかったので、翌日の新聞に「新渡戸博士、軍部を非難す」という記事を大見出し付きで掲載してしまった。

この記事はスクープとなり、日本全国に広まってしまった。たちまち国内に反発が起こり、小石川の彼の自宅は抗議する人々で埋め尽くされた。

「売国奴!」「非国民!」怒号と罵声が飛び交った。中には抜き身の刀を持って中に押し入ろうとする者もいた。「やい! 新渡戸、出てこい!」彼が玄関を開けようとした瞬間、メリー夫人はあっと叫ぶと、彼の腕をつかんで家の中に引き入れた。殺されるかもしれないと思ったのである。

家族は相談した末、別棟の従業員が使っている浴槽の中に彼を隠そうとしたが、新渡戸は手を振って拒絶した。「大丈夫。心配はいらないから」

結局、この事件は新渡戸の養父太田時敏の息子で海軍大佐となっている太田常利が、彼を在郷軍人評議委員会に連れていって謝罪させることにより収まったのだった。

しかしその後も、新渡戸が町を歩いていると、どこからか石が飛んできたり、「非国民!」とののしる声が追いかけてきた。彼はじっと黙ってこれらを耐え忍んでいた。

一方、日米関係も日に日に悪化していった。彼は胸の奥底から抑え切れない思いが湧き上がるのを覚えた。(私は太平洋の橋になりたいと願ってきたのに、まだその使命を果たせないでいる。)その時彼は、ある決断をするのである。

「松山事件」から2カ月後。新渡戸はメリー夫人を伴って「謝罪旅行」と称し、米国に渡った。そして、各地を講演して回ったが、結果は惨めなものであった。米国人にとって新渡戸は帝国日本からの回し者と思われ、どこへ行っても激しい批判の目が向けられた。講演会を開いても、彼の言葉に耳を傾ける者はいなかったのである。そして、今まで親交を重ねてきた友人たちも、クエーカー主義の教会の仲間たちも、夫妻を避け、会おうともしなかった。

それでも、新渡戸は諦めなかった。どんなにあざけられても、非難を浴びても、米国とカナダにおいて、大学、教会、学会、そしてラジオを通じて100回以上も謝罪の講演を行ったのである。そして1933(昭和8)年、彼はメリー夫人を米国に残して帰国。休む暇なく日本と米国および国連加盟国との関係改善のための講演をして回ったのである。

その年の8月2日。カナダのバンフで第5回太平洋問題調査会(IPR)が開催されることになった。この会では奇しくも新渡戸が議長を務めることになったのである。彼は平和主義者としての遺言を残すかのように、次のようにあいさつをした。

「親愛なる皆さん。ご存じのように米国と日本の間には政治的対立があります。しかし、今こうして同じテーブルについているわれわれのどこに敵意があるでしょうか? 私たちは友人同士であり、兄弟なのです。こうして友情の日々を過ごすことが、やがては両国間の和解へと通じることを信じてやみません」

それから1カ月後、新渡戸は病が悪化して重症に陥り、10月15日午後8時半、太平洋の橋となり得た彼は、カナダ市内の病院で静かに息を引き取った。

<あとがき>

新渡戸の晩年に起きた「松山事件」は、彼の生活を悲劇へと引きずっていきました。彼は日本軍のアジア諸国への侵略を憂い、非難の言葉を口にしたことから、これがマスコミを通して日本中に知れ渡ってしまったのです。

日本国内では軍国主義的気運が高まりつつあったので、彼は「非国民」と呼ばれ、集中攻撃を受けました。しかし、彼は自分のためには一言も弁明の言葉を口にせず、じっと耐え忍んで日本のために祈り続けたのです。

そしてある決断のもとに、彼はメリー夫人と共に「謝罪のための講演」に出かけました。そしてカナダ、米国において何と100回にも上る講演を行い、日本軍の罪深い侵略行為を謝罪したのです。

そのカナダのバンフで「太平洋問題調査会」が開かれたとき、奇しくも議長となった新渡戸は、政治的対立を乗り越えて各国は協力し合い、平和を守ってゆくべきことを切々と訴え、大きな共感を呼んだのです。

「太平洋の橋となりたい」という彼の悲願は、ここに実を結んだのでした。

(※これは史実に基づき、多少のフィクションが加えられた伝記小説です。)
記事一覧ページの画像:新渡戸記念館提供)

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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)

1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。

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