コヘレト書を読む(28)「人災」―災難〔人災と天災〕その1― 臼田宣弘

2019年8月1日15時47分 コラムニスト : 臼田宣弘 印刷

今まで何度かお伝えしてきましたように、コヘレトのミドラシュ(ユダヤ教の注解書)によれば、9章7節からが、この書の第3部になります。本コラムの第24回で申し上げましたが、9章7~9節は今までの第1部と第2部をまとめていると思われます。その上で9章10節の後半は以下のようになっています。「あなたが行く事になる陰府(よみ)には、業も道理も知識も知恵も無い」(聖書協会共同訳)。これは、当時流布していた黙示思想に抗する思想と思われます。彼岸に救いを求める黙示思想に対して、コヘレトは「この世での人生を一生懸命生きよ」と言っているのです。「陰府には、業も道理も知識も知恵も無い」から、業と道理と知識と知恵を用いて、この世での人生を一生懸命生きよ、ということです。

それを受けて、第3部は展開されています。そこにおいて一体何が語られているのか、ということを考えながら読んでまいりました。3部は9章7節から始まり、この書の最後である12章14節までとなりますが、9章7~10節は3部の序章と捉えることができ、また11章7節以下はコヘレト書全体の序章である1章1~11節とのインクルージオ(囲い込み)を構成している箇所ですので、本論は9章11節~11章6節であると思われます。この本論では、9章10節を受けて、業と道理と知識と知恵を用いてこの世での人生を一生懸命生きても、それでもなお災難に遭うこともある、ということについて語られているように思えます。

災難には一般に「人災と天災」があるわけでして、コヘレトがそこまで考えていたかどうかは分かりませんが、読者としてはこの2つを分別して読み取っていくと分かりやすいのではないかと思います。今回取り上げる10章10~18節は人災に関することと見て、次回取り上げる10章19節~11章6節は天災に関することと見て、本コラムをまとめてみたいと思います。それでは今回の箇所を読んでいきましょう。

10 なまった斧(おの)を研いでおけば力が要らない。知恵を備えておけば利益がある。11 呪文も唱えぬ先に蛇がかみつけば、呪術師には何の利益もない。12 賢者の口の言葉は恵み。愚者の唇は彼自身を呑(の)み込む。13 愚者はたわ言をもって口を開き、うわ言をもって口を閉ざす。14 愚者は口数が多い。未来のことはだれにも分からない。死後どうなるのか、誰が教えてくれよう。15 愚者は労苦してみたところで疲れるだけだ。都に行く道さえ知らないのだから。16 いかに不幸なことか、王が召し使いのようで、役人らが朝から食い散らしている国よ。17 いかに幸いなことか、王が高貴な生まれで、役人らがしかるべきときに食事をし、決して酔わず、力に満ちている国よ。18 両手が垂れていれば家は漏り、両腕が怠惰なら梁(はり)は落ちる。(10:10~18、新共同訳)

「なまった斧を研いでおけば力が要らない」(10節前半)というのは、歯車が合っているということと同じです。歯車が合っていれば力は出さずにも隣の軸は回転します。それと同じように斧も研いであるならば力を出さずに済む。「知恵を備えておけば利益がある」(10節後半)は、知恵も備えてうまく使うならば、研いである斧のようにうまく使うことができるということです。「業と道理と知識と知恵」を用いているのです。しかし「呪文も唱えぬ先に蛇がかみつけば、呪術師には何の利益もない」(11節)ということが起こります。これは10節を受けて、蛇使いの魔術師が、その技能をうまく使えずに、蛇に噛まれることを言っています。そうしますと、技能をうまく使えない蛇使いが蛇に噛まれるということは、「人災」であるということになります。

「賢者の口の言葉は恵み。愚者の唇は彼自身を呑み込む。愚者はたわ言をもって口を開き、うわ言をもって口を閉ざす。愚者は口数が多い」(12~13節)は、失言についてのことです。私もよく失言をしますが、失言は本当に損です。失言による災難はまさに「人災」です。

「愚者は口数が多い。未来のことはだれにも分からない。死後どうなるのか、誰が教えてくれよう。愚者は労苦してみたところで疲れるだけだ。都に行く道さえ知らないのだから」(14~15節)。未来のことは分からないというのは、コヘレトが繰り返して言ってきたことです。ここではそれが、愚者の言葉とされています。そして愚者の愚者は「未来が分かる」と言っているということでしょう。「未来が分かる」と発言する、愚者のその苦労は疲れるだけだと言います。これもまた「人災」の一つです。

そして次に人災の典型のようなことと、その反対のことが語られています。「いかに不幸なことか、王が召し使いのようで、役人らが朝から食い散らしている国よ。いかに幸いなことか、王が高貴な生まれで、役人らがしかるべきときに食事をし、決して酔わず、力に満ちている国よ」(17~18節)。ここでは不幸と幸いが対置されています。「王が召し使いのようで」というのは、王に統制する力がないということでしょう。だから役人が朝から食い散らかしているのです。それは昼間から酔っているということでしょう。統治の空白が起きているのです。それはまさに「人災」です。18節は逆の賢い王と役人のことが示されていて、それは力に満ちた幸いな国であるとされています。「業と道理と知識と知恵」が、適切に用いられているということでありましょう。この記述によって、17節の災難に遭っている国の人々が、対照的に浮かび上がってきます。

「両手が垂れていれば家は漏り、両腕が怠惰なら梁は落ちる」(18節)というのは、家の管理のことです。両手が垂れているように、両腕が怠惰なように、管理者が働かずにいれば、家も修理をすることができず壊れていくということです。これも「人災」です。

このように、本日の箇所は「人災」として読むと分かりやすいと思います。前回、「災難・不運は愚かさの結果であると伝えられている」と申し上げましたが、人間の愚かさの結果として起こること、それがまさに「人災」であるといえるのではないでしょうか。今回は人災に関することを取り上げましたが、次回は、「天災」に関することが記されている箇所を読むことに致します。(続く)

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【お知らせ】本連載コラム「コヘレト書を読む」は、第30回で終了となります。終了後は、新連載コラム「パウロとフィレモンとオネシモ」がスタートします。掲載日は、これまでと同様、毎月第1・第3木曜日の予定です。どうぞご期待ください。

臼田宣弘

臼田宣弘(うすだ・のぶひろ)

1961年栃木県鹿沼市生まれ。80年に日本基督教団小石川白山教会(東京都文京区)で受洗。92年に日本聖書神学校を卒業後、三重、東京、新潟、愛知の各都県で牧会。日本基督教団正教師。2016年より同教団世真留(せまる)教会(愛知県知多市)牧師。愛知牧師バンドのメンバー(キーボード担当)

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