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日本宣教論

日本宣教論(112)民衆の賛美 後藤牧人

2020年3月4日22時09分 コラムニスト : 後藤牧人
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関連タグ:後藤牧人

礼拝音楽全般

現在の礼拝音楽は、西洋のクラシック音楽が標準とされている。賛美歌を中心とする礼拝音楽は、日本人を引き付ける役目を持っている。しかし、これは逆に日本人を追い払い、敷居を高くしている面もあることを忘れてはならない。つまりバッハの音楽などは憧れる人は引き付けるが、そんなものとんでもない、と敬遠する人は遠ざけているのである。プラス・マイナスを計算すると、遠ざけている方が多いかもしれない。

ある高校生の言葉に、友人を連れてきたいが、賛美歌が暗くてあれでは誘えないと言うのを聞いた。たぶんビートが利いていないということだろう。若者たちにとって、賛美歌はあまりに異質なのである。日本は現在「生きている」パイプ・オルガンの保有数が、世界一だそうである。「生きている」とは、パイプ・オルガンはメンテナンスが大変であり、オルガンはあるけど鳴らない、というのは外国ではざらなのだそうである。

「きよし、この夜」が歌われた最初の礼拝もパイプ・オルガンが故障していた(ネズミに皮製のエア・バッグをかじられて穴が開き、空気が洩れて鳴らなかった)。それで作曲者はギターで伴奏したというのは有名な話である。日本のパイプ・オルガンは、数だけ見ればほとんどがキリスト教会の保有である。日本の教会には「本物の礼拝音楽」を求める願いが強いことが分かる。ところが、このようなクラシック音楽を基調とする礼拝音楽は武器であると同時にまた障害でもある。そのことは覚えておくべきであろう。音楽には強い力がある、これは考えるべき問題である。日本的なキリスト教の成立のためには、日本的な礼拝音楽の確立が必要である。その重要さは強調しすぎることはない。

日本的な賛美の確立というと、大それたことに聞こえるが、別にそんなに大変なことではない。歴史的にキリスト教会は、ずっとその時の社会に愛好される歌を賛美に流用してきた。ルーテルがそれをやり、バッハもやっている。「血潮したたる」は、当時流行の悲恋の歌のメロディーを使ったのだそうである。我々も手始めに、大いにパクリをやって福音的替え歌をやるのである。

「上をむいて歩こう」に、福音的な歌詞をつけて歌っているグループがある、「川の流れのように」も、すぐ使えそうである。信徒に一人一人が自分の好きな歌を演歌でもJポップでも選んでもらう。そうして、それに自前で歌詞をつけて、礼拝でドンドン使用すると良いのではないか。その時、ロック・バンドも、ジャズ・ピアノも、またパイプ・オルガンも、すべて動員すればよい。カラオケの伴奏を使うことも考えられる。豪華なアレンジと伴奏がついている。パクリの現代替え歌賛美をドンドン使い、また伝統的な教会音楽もパイプ・オルガンでやるのである。こうして、クラシック音楽こそが教会の「標準的な礼拝音楽」であるという迷信から解放される。そうすると礼拝の音楽が、もう少し生き生きしてくるかもしれない。

牧師も信者も、本当は演歌なら分かり、演歌歌手の優劣など自分の意見を持っているのだが、クラシックはさっぱり、でも皆でクラシックを分かったフリをしている、などということはないだろうか。そういう「分かっているフリ」が礼拝にあれば、具合が悪い。神様もクスグったいのではないか。礼拝は、真実でなければならない。クラシックが好きでない人にとっては、 演歌やポップス調の賛美でノレるものがあるとうれしくて、力いっぱいに歌えるだろう。主への賛美とは喜びが弾じけるものであってほしい。それがくすぶっていては、不発弾である。

音楽は、日本文化の中では芸能である。だから「習い事の集団」のクセが教会音楽にも出てくる。習う方も教える方も皆、「型」があるに違いないと思っている。こうして「本場」で歌われている「型」が「正調・純正」であって、日本人の作ったものなどは怪しげでせいぜい「模造品」でしかない、と思っているようである。だから、日本の教会音楽は、一歩でも欧米の教会の「本場」の音楽に近づくことが進歩だということになっている。それで日本の教会の賛美は、自分の喜びを表現する機会を失い、賛美が伝道の武器ではなくなっているように思う。

民衆の賛美

人間は喜び、楽しみ、悲しみがあれば、歌う。これは自然の表現である。信仰もそうであって、思わず歌が発生する。それが賛美である。キリスト教会は、この賛美の豊富さで知られてきた。ところが、日本のキリスト教会では、自然発生的な自分たちの賛美が少ない。これは教会内の音楽にも、日本的な「習い事の集団」における学習の方法論が働いているからではないか。だから本場の「正しい賛美」を学ぶように、それから外れないように、そうして「我流」でやらないようにという規制が働いているように見える。

そのために、直接的な聖霊による喜びを稚拙でも表現して良いのだ、という観念がない。まず西洋の賛美歌を学ぶべきである。世間のメロディーなど持ち込んで、勝手にやってはならぬ、ということなのだろうか。このような伝統のために、専門家である教会音楽家の権威を認めすぎる傾向があるが、これは日本の習い事の秩序の構造の中では当然なことである。専門家はだいたいクラシック畑の人であり、稚拙なものが教会から出てくるのは規制しようとする。

習い事集団では、初心の者が下手な芸を見せるのは禁物である。まず型を習い、5段にまで昇格せねば、新しい方向や工夫は出せない。そういう気風が教会の中にも生きている。だから、若者が自分たちの作った歌などやろうとすると、顔をしかめられる。出来上がったものを歌うか唱えるのはよいが、自分が作って歌うなどとんでもない、というのが日本の教会の態度に多い。しかし「型」が先行すれば礼拝は死ぬ。

「型」の存在、「本場」の尊重ということは、プレイズにもクリスチャン・フォークにも見られる。つまり民衆の歌についても、まず米国で歌われ、出版される。それが翻訳されて日本で出版され、歌われる。つまりコンテンポラリーのポップス調の賛美であっても、やはり「本場」でまず歌われることが必要らしい。

一時期、日本で活躍したフォーク賛美のバンドがあったが、米国の賛美の紹介を主として英語で歌っていた。英語の発音はなるほど本格的だったが、それがいったいどれほどの価値があるというのか。甚だしく疑問である。近頃、クリスチャン・ポップス歌手のオリジナルのソロのCDが、次々と出るようになった。すべてはここから始まるので、非常に喜ばしいことである。

筆者の友人で、北インドの牧師がいる。彼はニュー・デリー近辺に居住するボジプリ語族(約1億4千万人)の出で、同語族の特に農民に伝道している。都市の教会なら翻訳の賛美も使うが、自分たち農村の教会は外国のメロディーは使わない。民謡に福音的な言葉を乗せたものを使っている、と言って歌ってくれた。 またモスレムに伝道するときは、ウルドゥー語族だからこのようなメロディーとか言って、別の感じのメロディーのものを歌ってくれる。特にリズムに特徴があり、村の祭り噺子に使う小さな鼓の拍子をやってくれる。

日本は、最も「地の賛美」の少ない国と言っていいだろう。もっとも今の日本人の音楽とは何なのか。演歌は廃れているようだし、Jポップも古いらしい。やや焦点が合わないところもある。それは、伝道を狙う層に当てればいいだろう。それとも、もしかすると日本の礼拝はあまりに教理的、哲学的すぎて、主イエスを賛美するところまで行っていないのだろうか。まさか、そういうこともないだろうが。

日本基督教団讃美歌委員会発行の賛美歌は、歌詞が古すぎる。単に古いというのではない。もっと大きな問題がある。以前の「礼拝と音楽」誌上の座談会にあった言葉であるが、賛美歌の歌詞は新古近和歌集的なリリシズムのドロ沼である、というのがあった。これは、まさにピッタリの批評である。美文調にすぎて、何を言おうとしているのか伝わってこない。なるほど仮託は日本文学の宝かもしれぬが、陳腐なのは頂けない。「まぼろしの影を追いて浮き世にさまよう、移ろう花にあく(憧)がるる、わが身の儚なさ、春は軒の雨、夏は庭の露・・・」などという。いったいあれは何だ! あれでは、仏教的な世界観の賛美である。西本願寺にでも、ソックリ差し上げるべきである。自分はもともと、このメロディーは嫌いではなかった。 神学校に入って聖書の世界観を学んで、「浮き世」はキリスト教思想にはないことが分かり、よくも俺を騙しやがった、と憎さ百倍のところがある。

英語やドイツ語などの原歌詞には、喜び、痛み、戦い、解決などが直截(ちょくせつ)的な表現で、むしろザラザラした肌触りで表現されているのが多い。それが翻訳になってすべて日本調のリリシズムにくるまれてしまっている。悪い仮託がされ、花鳥風月を歌い、感動が薄められている例がある。「山路越えて一人行けば」なども、結局何を言いたいのか分からない。

筆者は、昭和39年から45年にかけて、学生伝道に従事したが、当時お茶の水の街頭からそのまま会館に入って来る大学生の生活を考えると、賛美歌があまりにかけ離れていることにショックを覚えた。初めてキリスト教の集会に来た学生に歌ってもらえる歌、すぐ歌えて、しかも歌う本人が祝福を受ける歌が当時は不在であった。それで伝道会では「いつくしみ深き・・・」しか使わなかったことも多かった。

ゴスペル・フォークが始まったのはその直後で、日本にもそのような賛美が出てきたことを感謝したのであった。ただ、このようなゴスペル・ フォークは主としてパラチャーチ(各種伝道団体)が使用して、教会では伝道会で使っても、礼拝では使用しない、そういう傾向がある。近頃のプレイズと称する賛美は良い傾向であるが、外国ものの翻訳が多い。外国で使われている、となると安心する、これはどうにかしなければならない。人が救われて聖霊の内住があり、その口から賛美がほとばしり出れば、日本も立派に「本場」なのではないか。

在来の賛美歌・聖歌に固執するのは、一つには楽器の問題かもしれない。そもそも礼拝にはオルガンでなければ、という概念がある。これも一つの「型」である。オルガンやピアノ以外は礼拝の楽器としてはふさわしくない、という思い入れがある。ギターでは、遊びの楽器だから神様に失礼に当たるということだろうか。

それで賛美歌を鍵盤楽器で弾くのであるが、たいていの場合楽譜通りに弾くものだという観念があるので、オルガニストは賛美歌合唱譜をそのまま弾こうとする。賛美歌集の楽譜は、鍵盤楽器のための編曲でなく、合唱のためのアレンジである。その通りに演奏するのは、非常に難しいことが多い。それで多くの教会では、礼拝の賛美のテンポが極めて遅くなる。早く弾けない、それでダラケてしまう。弾ける曲数も少ない。たいていの礼拝では、ほとんどが指定された速度の半分より遅く、ダラダラと歌っている。これでは、高校生ならずとも気分が沈滞する。

ブレザレンの礼拝に出たことがあるが、楽器を使用しない信条の群れである。もちろん無伴奏である。ところが、そのためキビキビと、しかも普通の教会ではオルガニストがアレルギーを起こしそうな名曲も、ドンドン歌っていた。驚き、祝福があった。ブレザレンは楽器を使わないために、一般に賛美の質が低いと思われているグループであるが、どうしてそうでない。皮肉に感じたことである。普通なら、オルガニストから抗議が来てあまり歌わない曲とか、またオルガニストの実力が伴わないので、テンポが極端にのろくて暗くなる曲が、ここでは明るく歌われていた。

実は礼拝のオルガニストは伴奏者ではない、指揮者である。出席者をリードするのである。それが皆の賛美の後を楽器がノロノロついて行って、かえって足を引っ張っているのが多い。これからは賛美歌には、伴奏者用にコード記号をつけておくべきであろう。ピアノを単音で右手でメロディー、またはオクターヴにとる、そうして左手でコードを弾くとよい。もし2段鍵盤のオルガンなら、右手は上鍵盤で音量を大きくして、5 2/3 フィートも鳴るようにして(5度上が鳴る)、下鍵盤は左手でコードを弾くようにすることもできるだろう。聖歌(総合版)には、コードがついている部分がある。これは良かった。 ギターを使用するか、または鍵盤楽器でもコード奏法ができる。ぜひ簡易な奏法を会得して、日本の教会の音楽を生き生きとさせてほしいのである。

ギターは、クラシック奏法は非常に技巧を必要とするが、コード奏法で使えば容易に伴奏ができるようである。極端なことを言えばトニカ、ドミナント、サブドミナント、セブンスとマイナーなど4、5種類の「押さえ方」 が分かれば使えるようで、あとは6弦全体を任意の場所で押さえる「カポ」 を使えばどんな調でも基本的な和音が出せる。民主的な楽器である。

筆者は、決して簡易が良いと言っているのではない。またギターを持ち上げているのではなく、オルガンをけなしているのでもない。楽器はリズムを保ってキビキビ演奏し、出席者の歌をリードするのが重要であると言っているのであり、現在の日本の教会の現状を見れば、簡易楽器を多用すべきでないか、と言いたいのである。

ただし、エレクトーンなどの電子楽器は良くない。あれはオッシロ・スコープを使って数学的な平均率音階を出してあり、安っぽくて気持ちの悪い音しかしない。イタリア製の電子オルガンで古典調律、現代平均率、ミーン・トーン、ピタゴラスなどと調性の選べるのを見たことがある。気持ちのいい音だった。ただし高価。古典調律というのは、白鍵はミーン・トーン調律で、黒鍵をピタゴラスで調律してあって、バッハ時代の平均率というのは、実はこれのことだという人もいる。たいていのパイプ・オルガンは、これに似たヴェルクマイヤーで調律されているらしい。

電子楽器では一つ一つの鍵に、別個の発振素子を使うと高価になる。普通は全体でたった一組の発振素子を使い、あらゆる周波数(ホワイトノイズ)を発生させておき、あとはフィルターで各鍵に割り振っている。こういう安っぽいことをして音楽が演奏できるわけがない。音色がすべて同質だから、ポリフォニックな要素があれば、音が混じってしまい実用にならない。古物商では電子オルガンは2〜3万円で、それも近頃は扱わなくなった。完全なゴミ扱いである。

賛美歌にコード記号をつけるなどとんでもない、冒瀆(ぼうとく)であるなどと言うなかれ。バッハの時代でも、合奏譜に数字つき通奏低音(バッソ・コンティヌオ)がある。低音が書いてあって数字がある。鍵盤楽器で、上をそのコード内で自由にやってよい。即興などできません、そんなの困りますという人はいつでもいる。だからキルンベルガーという大バッハの弟子が、ではこうしたら、と書き込んだ楽譜もある(J・S・バッハ・音楽の贈り物の例)。オブリガートも、この範囲でやる。

米国でいろんな教会の礼拝に出た経験からすると、オルガンでどんどん会衆賛美をリードして盛り上げられる、そんな実力のある奏楽者の例はほとんどなかった。これは、やはり容易なことではないのだろう。ただし、ピアノでは巧みにリードして盛り上げている人はかなりいた。カリフォルニアのある長老教会の礼拝に出たとき、開会の奏楽はパイプ・オルガンだったが、出席者の賛美の時はピアノを使っていた。オルガンで、どんどん賛美をリードする自信がなかったのだろう。

米国では、鍵盤楽器だけ使っている教会は衰える・・・というそうである。これは楽器が悪いのではない。また、ギターの方が祝されているということでもない。要するに、鍵盤楽器を十分に使いこなせる人が少ないということだろう。それでどうしても賛美に活気がなくなるということなのだろう。つまり、賛美をノロノロ弾いていたのでは人が来ないという認識があれば健康なのである。賛美は鍵盤楽器でないといけない、という迷信にとらわれていると、何が人の心を引くのか、何が人を遠ざけるのかが見えてこない。どうも、それが日本の教会のようである。

米国の多くの教会では、礼拝開始前の時間にバンドの伴奏でゴスペル・フォークなどを歌う。礼拝になると、伝統的な賛美を使用するようである。もちろん礼拝の中で、バンドを使う教会もある。ヨーロッパでは、パイプ・オルガン奏者は足鍵盤と左手で弾いてしまい、右手は即興用に取っておく、というのが理想だそうである。つまり右手はオブリガートを弾くということなのだろう。自分が米国に礼拝に出た限りでは、そんな素晴らしいオルガニストがいる礼拝はなかった。

鍵盤楽器で即興を入れるのは大変だろうと思う。そうなら、鍵盤楽器ではコードを弾き、それに独奏楽器でメロディーまたは裏メロを入れる、などのことをすることも考えられる。つまり独奏楽器でオブリガートをつけるのである。オブリガートとは、対位法的にメロディーに反転して加えるのである。それだけでグンと輝きが出てくる。単に3度上をつけるのでもいいし、1フレーズ遅れてメロディーを繰り返してもいい。フーガの初歩である。いや鍵盤楽器と一緒に、メロディーを鳴らすだけでもいい。

(注・詩吟に尺八の伴奏がついていて、尺八の演奏がオブリガートとして絶妙に役を果たしている例がある。また津軽三味線の語りや、歌と三味線の組み合わせはオブリガートを果たしている。ただこの場合は、出現する和音がテンション・コードっぽい。カントリーの “I met a girl from Virginia.” を聞いたことがあるが、バンジョーの伴奏が(歌手は忘れたが)、津軽三味線の伴奏とあまりに似ていて、 驚いたことがある。高橋竹山はパリ公演の時、昼間は街頭で演奏するとたくさんの人が立ち止まって聞いてくれ、夜の公演も成功だったと言う。うなずけるというものである。)

オブリガートは、ジャズっぽいのを入れてもいいし、クラシック調のもいいだろう。クラシック調のものは、バッハの教会カンタータの中の合唱曲や、受難曲の中の合唱の上に乗せてあるのが参考になる。メサイアにもたくさん使ってある。参考になる(というよりは合唱にオーケストラの伴奏がつけば、必ずついている)。

元来は、歌う人の声に合わせて即興でつけるのだろうが、標準的なのを印刷しておけばよい。日基教団讃美歌第2編には、クリスマス曲など7、8曲にデスカントがついている(デスカントは人声の場合を言うらしい、それを楽器でやる)。ロック調とクラシック調と、2種類つけておけばいいだろう。若い人の集まりなら、ロック調のほうは「入れる」ように指示しておけば、楽譜など書かなくてもすぐ始める人がいるだろう。オブリガートが金管で入れば輝きが出て素晴らしい。もちろん弦楽器でもいい。

中学、高校でブラスをやった人など多いので、埋もれた才能は多くある。昔やってました、という人は多くいる。対位法といっても、ジャズやロックでいう裏メロということである。モーツアルト以後は亡んでしまったはずの対位法(ポリフォニー)が、ジャズやロックで復活しているのは、考えてみると面白いことである。ビートルズなどは、対位法的な動きの処理が抜群であるが、彼らは誰にも習っていないのだろうが、カウンタポイントの動きが自然に湧き出ている。やはり天才なのだ。

今の「賛美歌」を見ると、これは整った大きなオルガンがあり、それをバリバリ弾けるオルガニストがいて初めて使えるたぐいの代物である。そんな教会は数えるほどしかない。だから担当者が弾ける曲だけやるとか、皆の賛美の後をたどたどしく弾く、そういうことになる。大学の聖研のクラブなどで、ギターの伴奏でゴスペル・フォークをバンバン歌うのは、ずっと活気があり、魅力がある。初めての人も溶け込む。これなら賛美が伝道の武器となれる。

ギターは撥弦楽器なので、パーカッシヴに弾ける、演奏が容易なので指定通りのテンポを取ってリードできる。またコード奏法の場合、奏者は楽譜を見なくてよいので、歌詞のアクセントに従って微弱な長短(ルバート)をつけて弾ける。これは面白いことに、まだ4、5曲しか弾けませんというような初心者でさえも、ほぼ本能的につけられる。これは、たぶんギターの最大の魅力だろう。

ルバートのことを言えば、ギターの対極にあるのがICで作ったヒム・プレイヤーである。数学的な正確さで音譜を演奏する。人間が歌うときには、歌詞や表現によって感情に従って微妙にテンポが変わる、ある小節はやや速く、次の小節は遅くというふうに歌っているのである。ところが、ヒム・プレイヤーにはそれがない。

それで誰も、この機械とは一緒に歌えない。たいていプレイヤーと人間は別々になる。2番くらいからバラバラになる。人間の歌には感情もあるが、また言葉のアクセントに従って微妙な遅れ、進みもある。それがあってこそ、音楽なのだろう。もちろん、ギターに欠点はある。安価な楽器だと正確に調弦できず、音が汚い。また奏者がやたらにうるさく弾くこともあり得る。しかしオルガンを眠く、クラーく弾くよりはずっと良い。オルガン奏者は、このキビキビした音楽を目標に努力するのがいいだろう。

だいたい牧師が賛美の音楽の在り方を分かってないので、ともすれば「ご詠歌調」になりやすいのである。これは、神学校から始めねばならない。ルーテルは、神学校の校長は賛美が歌える人でなければならない、と言った。大切なことである。専門家である教会音楽家は、理想論ばかり言っている傾向がありはしないか。整った礼拝堂と、優れた楽器と奏者があって初めてできる、そういう状況だけ考えて理想論を繰り返すだけの人がいる。

現実は15名くらいで集まっている礼拝で、訓練された奏者のいない現実の中でどう活発な賛美が湧き起こるか、皆その手立てが欲しいので、それを与える人が必要である。それが日本の教会である。どうにかしてもらいたいものである。手を叩いて拍子を取るだけでも、賛美はガラッと変化するのである。理想論を繰り返すのは、まさか自分が無能なのを隠蔽するためではないだろうが。

日本の教会の99パーセントが持っている、どうにもならない「音楽欠乏症候群」 に対して、教会音楽家たちは責任を感じてもらいたい。現実の教会の礼拝音楽の在り方に対して「実行可能な解決策」を提示してもらいたいものである。そうして毎日曜の礼拝の音楽がほんの1パーセントでも2パーセントでも向上する方策を教えてもらいたい。

教会音楽の専門家たちの文章には、日本の教会の礼拝音楽はまだまだ程度が低いとかいうのがよくある。また礼拝にギターを使うなどというと格調が問題にされ、伝統がどうのと文句を言う人がいる。シンガポールの長老教会で200人くらいの礼拝に出たことがある。ギター1本で礼拝してキビキビと歌っていた。だらだらせずアップ・テンポで生き生きした賛美がされていた。日本でならギターではいけないとか、すぐそういう批判が出ることだろう。

繰り返すようであるが、ギターが良いと推奨しているのではないし、オルガンはいけない、などと言っているのでもない。オルガンをどう弾くか、そのイメージがないので、この重量感のある楽器によって賛美が圧殺されようとしている現実を言っているのである。あるオルガニストのいない教会のことだが、皆が回り持ちでソング・リーダーをすることになっていた。当番になった人は1週間、毎日練習して、当日は皆の前に出て歌っていた。皆はその後をついて歌っていた。これは、メリハリのある賛美になっていた。とても良かった。

オルガン奏者は、賛美の指揮者である。ソング・リーダーである。荒野の旅でイスラエルの前を進んだ祭司の一団が銀のラッパを吹き鳴らし、皆がそれに従って行進したという。それがオルガニストの役目で、このスピリットが分かれば、技術はついてくるのである。フォーク・ギターで若者にやってもらうと、そのところが何も理屈を言わなくても自然にリードしてくれる。不思議なものである。

音大を出た人は「掃いて、捨てる」ほどいる。その人たちが演奏の機会がなくてピアノ教室くらいでクサっている。教会に導かれて主のために用いられるべきであるが、意外とあまりその例を間かない。もっとも小生が25年間牧会した町田の教会は、男女あわせて7、8名のオルガニストがいたが、大学で音楽を専攻した人はいなかった。

英語の賛美歌集を見ると、<おりかえし>のところが<chorus> となっているのがある。日本語でコーラスというと合唱と思うが、誤訳である。合唱、斉唱にかかわらず、要するに皆が歌うという意味である。ギリシャ演劇の中の、コーロースが原意である。それで英語の賛美は、始めの歌詞は独唱者が歌い、皆は聞いている。<コーラス>のところは皆が歌う、そういう構造になっている。

これは、外国には文盲の人が多いという事情もあるからで、これの良い点は皆が譜を見ないで正面を向いて歌える、だから声がそろう。覚えて歌うから表現が豊かになる。これは礼拝で一曲ぐらいやると賛美が変わる。独唱できる人がいれば実験をお勧めする。

戦前には「賛美歌クリスチャン」という言葉があった。賛美歌が歌いたいから教会に来るが、信仰は二の次という人であった。オルガンの音を聞きたければ、教会しかなかった頃の話である。もちろん小学校にもあったが、ストップ無しの貧弱なものだった。そういう時代のことである。「賛美歌クリスチャン」という言葉は、音楽が伝道の道具になっていたことを示している。近頃はそういう言葉を聞かない。当たり前である、ちまたに音楽があふれていて、教会の音楽は負けている。

しかしなお信仰の歌、賛美の歌、祝福を喜ぶ歌は魅力があるはずである。大学の聖研でたくさん歌っていると、その歌声に魅力を感じて参加して、やがて救われる学生がいる。小生は65歳まで、付近の大学の聖研の講師をしていた。毎週よく歌ったものである。小生の下手なフルートも持って行って、オブリガートを吹いたものだった。学生たちは、小生の「ヘタの横吹き」をガマンしてくれた。

(後藤牧人著『日本宣教論』より)

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*

【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)

後藤牧人著『日本宣教論』

日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。

(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)

ご注文は、全国のキリスト教書店、Amazon、または、イーグレープのホームページにて。

◇

後藤牧人

後藤牧人

(ごとう・まきと)

1933年、東京生まれ。井深記念塾ユーアイチャペル説教者を経て、町田ゴスペル・チャペル牧師。日本キリスト神学校卒、青山学院大学・神学修士(旧約学)、米フィラデルフィア・ウェストミンスター神学校ThM(新約学)。町田聖書キリスト教会牧師、アジアキリスト教コミュニケーション大学院(シンガポール)教授、聖光学院高等学校校長(福島県、キリスト教主義私立高校)などを経て現職。

■ 【後藤牧人著書】(Amazon)
■ 【後藤牧人著書】(イーグレープ)

※ 本コラムの内容はコラムニストによる見解であり、本紙の見解を代表するものではありません。
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