日本宣教論(85)孤独の創造 後藤牧人

2019年2月19日10時22分 コラムニスト : 後藤牧人 印刷
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孤独の創造

日本人は生きるために共同体に所属するが、それはいわば主食である。しかし、かれは精神的な健康を維持するためにわずかの「孤独」を必要とする。

それはちょうど、人間が微量のミネラルを必要とするのと似ている。人間は微量の亜鉛、鉄、銅、セレンなどのイオンを摂取しないと健康を維持できない。かといって、これらは主食ではない。鉄や銅の塊をパンの代わりに食べるわけにいかない!

平均的な日本人は、共同体に所属して仕事をしている。かれは現場職であっても、事務職であっても、米国の同じ職種の人間と比べると、はるかに大きな責任を与えられ、尊重され(米国との比較で言って)生きがいを与えられている。

同じ立場にいる米国人は、まるで仕事を憎んでいるかのように、終鈴が鳴ると仕事場から逃げ出すが、日本人は仕事に愛着があり、一段落するまでは帰らない。職場を出てからも仕事のことを忘れず、飲み屋では仕事について話し合うことになる。

日本人は、このようにお互いに頼り合う、協力し合う状態を好む。職場では、自分の都合を主張していては会社はやっていけないと思い、皆が全体を第一にする、そういう状態を好む。これはかれにとって、最も精神が安定する状態で、それが日本人の特性である。

日本人の職場は、野球やサッカーの競技チームのようである。自分の守備範囲に他人が入り込んでカバーしてくれ、自分も他人の守備範囲をカバーし、互いに助け合う。そういう関係が、日本人には居心地がよい。現実は、それよりは遠いかもしれないが、それが理想である。

自分の仕事をこれこれと定義して、それから一歩も外に出ない。隣が困っていても知らぬ顔、というのはいけないこととされる。反対に米国では、そういう孤立的な態度が通常である。他人の仕事を手伝うのは、秩序を乱す行為とされる。

トップ・マネジメントの現場では、トップに命じられたこと以外のことをやれば、それは規律違反である。互いにカバーし合えば、トップは能率の悪い人間を発見できないからである。トップは能率の悪い人間を発見し、すぐ排除(クビ切り)せねば会社の繁栄はない、とされる。 これは意地が悪いのでなく、これが米国の労働倫理なのである。

日本人は、このように常に自分の隣の他人のことを思い、協力することを求められている。協力などイヤでも「思いやり」を持っていることを示すか、持っているようなフリをせねばならない。本人の評価も能力があるかより、どれだけ協力の姿勢があるかということがポイントとされる。

そのような状況は、日本人にとっては基本的には居心地がよい。米国的な労働環境には、日本人は到底耐えられない。

しかし、密接に連携しあった共同体の中で生きていると、人間は疲れてくる。いつでも居心地がいいわけではない。しばしば自分を抑えるので「自分を殺」さねばならぬような状況もある。本当のことは発言せず、やりたいことがやれないと感じる、ついには精神の平衡を失いそうになる。

もう一つ、日本人は個人としては一般的に道徳的であり、清潔である。偽らず、盗まず、ごまかさず、法律を貴ぶ。ところが会社の一員としてはそうでなく、取り引き相手に偽り、盗み、ごまかし、法律を破るのである。

このように、会社の一員としての倫理基準は、かれ個人の基準よりは低い。日本人は、一般にこれは自分個人のためでなく会社のためにやっているのだ、ということで良心をなだめる。そのためにも、この状況から一時的に脱出せねばならない。

くどいようだが、日本人の生きる場所は、あくまで共同体の中である。しかし、時にそこを「脱出」して、「微量の孤独」を確保したいのである。ではこの「微量の孤独」を日本人はどこで見つけるのだろうか。日本人の生活を観察すると、日本人はこの「孤独」を見つけるのでなく、創造していることが分かる。であるから、これは逃避ではなく、創造的な営みである。

日本人の要求する「孤独」は、孤立ではない。それは「文化的な孤独」、または「個志向の文化」である。日本人が創造する「孤独の文化」は、2つの形を取る。1つは、個人が生む孤独の文化であり、もう1つは集団が関わって創造する孤独の文化である。これはまた「構造のない孤独」と、「構造のある孤独」とも言い換えられよう。前者は個人が生み出し、個人が出会う孤独であり、後者は孤独の創造のために訓練を必要とし、その訓練のために、半共同体が存在するものをいう。

個人的孤独

孤独になるため、日本人は他人と有機的な関係を持たないでもいい所に行く。かれは日本画を見、日本庭園に遊び、寅さんシリーズを見る。またパチンコに行く。店内は人でいっぱいかもしれないが、遊戯台に座るとかれは1人である。映画も、普通、劇場には行かない、ビデオ・テープを借りてきて1人で見る。

筆者の住む東京の町田市を例に取ると、人口が40万であるが、映画劇場は3つしかなく、座席数はあわせて300ほどであり、それがいっぱいになることはまずない。こういう感じは、恐らく日本中でだいたいそうであろう。これは、米国における映画館の座席数と比べると、考えられないほど少ない数字である。

日本人は、遊ぶときに友人と集まってトランプで遊ぶよりは、1人でパチンコに行く。主婦が集まってトランプをやる、ブリッジ・パーティーなどまず存在しない。やってる人はごくわずかにあるかもしれないが、有閑婦人の「不道徳」な遊びであるかのように見られる。それよりは、パチンコに行く方がマシである。米国ならば、専業主婦は白昼堂々とブリッジ・パーティーをやる。同じ自分の時間を使っているのであるが、その使い方の方向が違うのである。

多くの日本人は、日記をつける。日記は自分1人になり、自分の心の奥底と対面する良い機会である。コロンビア大学の日本学の権威のサイデンステッカーは、戦時中に米国の情報将校であった。かれの仕事は、日本兵の遺体から集めた手帳の内容を調べることであった。日記中の断片的な記述も何千となく集積されると、軍全体の動きが浮かび上がってくるという。諸外国では戦地における日記は禁止しており、後に日本軍も、これを禁止するに至った。

かれの驚きは、日本兵の全員が日記をつけており、時には、そこに自作の和歌や俳句が書き連ねてあったということである。米国では、成人男子の約20パーセントが「実際上の文盲」である。薬を買っても「食後30分に1錠・・・コーヒー、お茶は避けて水で・・・」というような使用法を理解することができない。これを、実際上の文盲と呼ぶ。兵士は主として、そのような階層から出る。米国とは、そのような社会である。それから見ると、日本兵の程度の高さはまさに驚きであった。

日記ばかりでない、和歌や俳句などの短形詩の創作も盛んである。天皇の宮廷は、毎年の正月に歌会はじめを行うが、何十万人が応募する。最高点を獲得した10名は宮中に招かれ、天皇、皇后の前で自分の和歌が朗詠されるのを聞く。例年この10名の中に運転手、主婦、農夫、兵士、商店主、警察官、教師、高校生、大学教授など、社会のあらゆる層が見られる。

天皇の宮廷は、新年の歌会はじめを少なくとも千年は途切れることなく続行してきた。応募者は、資格を問われない。このような例は、外国の宮廷にはない。

朝日新聞は、その第1面に大岡信による歌のコラムを数年載せていたが、だいたいその半分は100年以上前の古典であり、特に1200年前のアンソロジーである万葉集からも多く引用されている。

万葉集は、200年以上もかけて、全国からの詩の作品を集めたものであって、貴族、宮廷の人士、官吏、学者、教師、僧侶、農夫、農婦、兵士、兵士の妻、また浮浪の乞食など、実に社会のあらゆる階層から寄せられた詩作で満ちている。詩作は日本の伝統であり、教育のあるなしにかかわらず書く、まさにユニークな文化である。7世紀のある貧しい官吏の歌が万葉集にあり、一部を現代語に訳すと、次のようになる。

家の中では子どもが飢えて泣く。 壁は破れ、月がのぞく。
戸口には税金を集める官吏が立つ。
自分は慨然として、部屋で岩塩を舐めドブロクをすする、どうすることもできない。
天地は自分のためには狭くなってしまったのであろうか・・・(山上憶良『貧窮問答歌』)

日本の古典であるこの詩集には、このように貧しさを歌ったものがあり、それらが宮廷詩人たちの雅やかな歌に混じって載せられている。これも、日本人にとって職場の共同体の毒に対する解毒剤としての「微量の孤独」の一つである。共同体からの一時的な脱出のための手段として詩作し、日記を書き、趣味にふける。それが日本人である。

「孤独の創造」のための共同体

日本文化の中の伝統的な趣味は、すべて日本人を一時的に「孤独」にさせ、その中で自分を見る、または自分自身と対面させるための機会、または道具であるということができる。こうして茶道、華道、書道、武芸一般といったものすべてが日本人を孤独にさせる「仕掛け」である。

このような趣味の中にいるとき、日本人は生活の中では得られない「微量の孤独」 を経験するのである。書をやりながら、茶のお手前をやりながら、あるいは花を活けながら、そこに自分を見、職場やまた家族に対する責任から離れたところに、自分を置いて見つめるのである。

日本人の趣味が持っている精神的、または倫理的な関わりを表現している言葉に 「〇〇道」がある。この語はホビーとは違う。ホビーといえば楽しみ、心理的転換、それから来る休息の意味が強い。

日本人のこの組織された趣味は、そのすべてに「〇〇道」という呼称があるので、茶道、華道、書道、歌道、剣道、柔道、空手道、相撲道などがそれである。また「野球道」のごとく、外来のスポーツであっても使われることがある。娯楽という面ではなく、選手の自己との格闘、克己、人格完成への機会を提供する意味合いがあるときにこの「〇〇道」という語が使われる。また「道」には、そのような努力を見てくれている師があるものをいう。

横綱の資格として、「道」における精進の結果としての「品格」が問題とされる。これは外国から見て、最も理解しにくいものであろう。ここには、このような背景があって、横綱とは「相撲道の精進」においても、横範でなければならないとされる。これは外国人には理解困難で、小錦が横綱になれなかったとき、これを人種差別によるものと考えた。外国ジャーナリズムは、簡単にそう理解した。

柔道は明治時代までは、柔術と言った。それが講堂館柔道の成立以来、「道」が強調され、戦後は「柔道」のみが使用されている。武道が自己観照の手段である、という意識が現代にはかえって強くなっていることを示しているのかもしれない。

個人が1人でやっているものには、「道」はつかない。「道」と呼ぶときは、ほとんど「習い事」の半共同体があり、師匠が、その中心にいる。学ぶ者には「弟子入り」があり、入ったあとは段位があり、精進によってそれらをよじ登っていくシステムがある。

このように「習い事の共同体」では、師匠について習得するのであるが、稽古ごとの師となる人は単に技術の教授者でなく、自分自身がその「道」を通して自己観照を体験している人であることが求められる。「〇〇道」と名乗るものには「習い事の共同体」があること、師匠が中心の人物として存在していることが必要条件である。

このような精進から「奥ゆかしさ」また「人品」という言葉で表現される人格の深み、また他人の人格に対する包容力を備えた人物になることが要求される。すなわち師匠自身が修養を積んでいることが要求される。

これは教室で習う、またカルチャー・スクールで勉強するのと違う。違いは師匠との結び付きの深さ、共同体が形成されているかどうか、ということである。子どもにものを習わせるには、上品な人がいい、とは吉田兼好の700年前の言葉であるが(徒然草)、これはそのようなあたりを言っているのであろう。そうして、この原則は今でも生きている。

相撲もスポーツであるばかりでなく、師匠について精進する、という形式を取っている。「品格」などという言葉が出てくるのは、そのためである。

日本人は趣味をやるときには、それが花でも書でも、楽しいからやる、エンジョイするからやるとは言わない。「勉強になる」からやると言う。常に勉強が理由として挙げられるが、ここには自己観照の機会を見いだすということが中心になっていることが分かる。「自分が乱れているときはうまく花を活けられない」とか、また「自分の精神の状態が茶のお手前に表れる・・・」などの言葉を聞くことがあるが、これらの趣味が、いわば自分の内面を映し出す鏡であると考えられ、それをよすがとして本人が修養する、そのような構造になっていることが分かる。

なお、先にも述べたが伝統的に日本には、このほかに趣味や修養とは別個のこととして「恩師を持つ」、また恩師を囲むという師弟関係が存在する。それはゆるやかな集団であるが、その中心は恩師である。「恩師」とは、特に思い出の深い教師、皆に慕われている教師を指す言葉である。

その「慕われる」とは、かなり漠然とした言葉であるが、分析してみると愛情をもって見てくれた教師、自分に方向感を与えてくれた教師、また自分が倫理的な価値観を形成する上で影響の大きかった存在を言っている。すなわち、人間としての生き方を感得させてくれた存在である。それが小学校の時の教師であるか、大学時代の教師であるかはともかく、日本人が自分の人生において「生き方のモデル」として思い描く存在である。

そのような恩師という存在を特たない日本人も多くあるのであるが、皆が心の中では、人間として人生にそのような「恩師」を持った人は幸いであるという観念があり、そういう潜在意識のようなものが社会一般にあるといえよう。この集団は「恩師」とのつながりによって存在するものであり、横のつながりや組織は存在しない。その人物が亡くなれば消滅する。これも一応ここでは「習い事の共同体」の一部と考えておきたい。

(後藤牧人著『日本宣教論』より)

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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)

後藤牧人著『日本宣教論』

日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。

(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)

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後藤牧人

後藤牧人(ごとう・まきと)

1933年、東京生まれ。井深記念塾ユーアイチャペル説教者を経て、町田ゴスペル・チャペル牧師。日本キリスト神学校卒、青山学院大学・神学修士(旧約学)、米フィラデルフィア・ウェストミンスター神学校ThM(新約学)。町田聖書キリスト教会牧師、アジアキリスト教コミュニケーション大学院(シンガポール)教授、聖光学院高等学校校長(福島県、キリスト教主義私立高校)などを経て現職。

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