「がん哲学」—人は最後に「死ぬ」という大切な仕事が残っている

2011年5月22日14時44分 印刷
+「がん哲学」—人は最後に「死ぬ」という大切な仕事が残っている
「がん哲学」についてセミナーを行った樋野興夫氏=2011年5月19日、東大YMCAで

国内で初めて「がん哲学外来」を開設した順天堂大学医学部病理・腫瘍学教授の樋野興夫(ひの・おきお)氏が19日、東大YMCAで「がん哲学」セミナーを行った。同セミナーはVIPCLUB東京大学(代表:関智征氏)によって主催された。

セミナーでは「がん哲学」について、人間の体内細胞の変異から生じる「がん」という病気の「形態」「起源」「進展」が社会における人間関係・集団行動の過程に適用できることが説明された。以下は樋野氏のセミナーの概要である。

「がん哲学」とは?

「がん哲学」とは若き日から学び続けている南原繁(戦後初代の東大総長)(1889〜1974)の「政治哲学」と吉田富三(元癌研所長・東大教授・佐々木研究所長)(1903〜1973)の「がん学」をドッキングさせたものです。「がん哲学=生物学の法則+人間学の法則」です。

がん哲学外来」とは「生きることの根源的な意味を考えようとする患者とがんの発生と成長に哲学的な意味を見出そうとする「陣営の外」に出る病理学者の出会いの場」です。病院で「がん」であると診断されても、病院内では診療時間が限られていますので、患者とじっくりと話す機会が持てません。「がん哲学外来」の目的は、医師や家族などが自由な時間をもって患者とより深く対話していくことです。

マイナス×マイナス=プラス!?

「がん哲学」においては数式の計算と同様に、人間関係においてもプラスとプラスを掛ければプラスとなり、マイナスとマイナスを掛けてもプラスとなりますが、プラスとマイナスを掛けあわせるとマイナスとなってしまいます。積極思考・ポジティブ思考の人同士が会話をするとプラスのものを生み出しますが、そのような人が消極思考・マイナス思考の人と会話をするとマイナスの方向に引きずられてしまう傾向が見られます。一方、消極思考・マイナス思考の人同士が会話をすることでもプラスのものが生むことができるのです。

「がん」と診断されますと、患者が自分の病気のことで心がうつ病状態になったり、自分の暗闇の中に閉じこもりがちになります。しかしそのようなとき、あえて自分よりもっと大変な環境に置かれている人に共感し、そのような人と会話をすることで気持ちをプラスへと変えていくことができるようになっていきます。

がん細胞から正常細胞へ

不良息子を抱える親は、不良息子を殺すことで家庭を良くしようとは決して考えず、不良息子を正常の状態に戻すことを考えます。不良息子を正常の状態に戻すために不良息子の周りを囲む環境を改善しようとします。大学教授が学生を育てるときは、逆にその学生がどんな優秀な人間であっても、環境が良くなければ大成することは難しいです。物理的環境要因よりも、人間関係における環境要因が、人間形成に大きく影響してきます。がん治療も同様で最終的には、がん細胞を殺すのではなく、正常な状態に戻していくにはどのような環境を作っていくべきかを考える必要があります(「がん細胞の良性化」ないし「がん細胞のリハビリテーション」)。がん治療の過程におきましても、人間関係・自身の考え方の改善が大きな役割をなしてきます。そして「がん」を克服するためには、自分が一番大事であるという考えを修正し、自分よりもさらに大切なものがあると考える必要があります。自分の命よりも大切なものは「愛」でしかありません。その愛を大切にしていく考え方に転換していく必要があります。

「偉大なるお節介」と「暇げな風貌」

人間関係でさまざまな葛藤やトラブルがつきものですが、病理学者として多くの死体の解剖も行ってきて言えることは、「人生は空しい」ということです。どんなに偉い人であっても死にます。どうせ死ぬのだと思うと、相手に対して怒るのが30秒遅くなります。

人との対話では、「偉大なるお節介」と「暇げな風貌」が大切です。他人、特に「がん」と診断され衝撃を受けている人と対話する場合は、「他人の必要に共感」する「偉大なるお節介」が必要であり、「余計なるお節介」とならないように注意しなければなりません。また「他の人々に注意を向ける」には、「暇げな風貌」が必要です。新渡戸稲造のように「脇を甘くして、つけいる隙を与え、ふところの深さを身につける」ことが大切です。この「暇げな風貌」と「偉大なるお節介」を実践することで、「悠々と謙虚」な姿勢を生むことができるようになってくるでしょう。

お茶の時間の大切さ

そして「お茶」を飲みながら会話をすることが深い会話をするための鍵となります。「お茶」なしに会話をすると、どうしても相手との沈黙の時間が生じてしまいます。その沈黙の時間ができないように会話をしようとすると落ち着いて会話ができないのですが、「お茶」があることで相手との沈黙の時間ができたとしてもリラックスして過ごすことができるでしょう。

体内がん細胞は人間社会の縮図

体内がん細胞で起こることは、人間社会でも同様に見られます。がん細胞研究から哲学に発展させた最初の思想家といわれる吉田富三は、「人間は、孤島にひとり住んでいたのでは、良い人か悪い人かは判らない、人間社会の中に住まわせてみて初めてその性(サガ)が明らかになる。がん細胞もしかり。がん細胞は増殖して仲間が増えると、周囲の正常細胞からのコントロールを脱し、悪性細胞としての行動をとるようになる」と述べています。

また「がん哲学」を国際社会に当てはめますと、世界の国々がそれぞれひとつの体の中のそれぞれの器官の役割を成すように関係し合えば、平和な社会が出来上がっていくでしょう。その中での日本の立場は「肝臓」であるべきではないかと思います(「日本肝臓論」)。「肝臓」という器官は切られてもすぐに再生し、また異物に寛容な性質があります。さらに、解毒・代謝作用があります。日本という国自体も同様に一部が機能しなくなったとしてもすぐに再生し、また異なる文化や社会を寛容に受け入れていく必要があり、しかも理念がしっかりしている。そうなるとき世界に重用されるようになっていくでしょう。現在の日本社会は、「正常細胞」が減少(「劣化」)し、細胞間のコミュニケーションの不足により「異常細胞」が増殖(「がん化」)する微少環境があり、このままでは「がん化」が選択的に進行してしまうという懸念があります。

体内にしても人間社会にしても、「正常細胞(使命を自覚して任務を確実に果たす)」の「社会学(自己制御と犠牲の上に成り立つ)」に学び生きることが大切です。社会集団とがん細胞を対比しますと、「真の目標を見失った細胞集団=がん細胞」でありエゴイストの集団ということができます。そのような「社会のがん化」を防ぐ唯一の活路として共同体の理想像=「使命に燃える細胞集団」となっていくことが必要ではないでしょうか。

今後のがん医療とがん研究の目標は、「人のからだに巣食ったがん細胞に介入し、その人の死期を再び未確定の彼方に追いやり、死を忘却させる方法を成就すること」です。いかなる人間であっても最後には「死ぬ」という大切な仕事が残っています。考えの中心を自分から他人へ、一番大切なものを自分から普遍の愛に置き換えることで、いつ死に直面しても恐れることのないような生き方をしていくことが大切です。

樋野興夫(ひの・おきお):1954年島根県生まれ。順天堂大学医学部病理・腫瘍学教授、順天堂大学大学院医学研究科環境と人間専攻分子病理病態学教授、医学博士。米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センター、米国フォクスチェースがんセンター、癌研実験病理部長を経て、現職。順天堂大学医学部付属順天堂医院に2005年に「アスベスト・中皮種外来」、2008年に「がん哲学外来」を開設した。第一回「新渡戸・南原賞」など多数受賞している。

<著書>『がん哲学』『末期がん、その不安と恐れがなくなる日』『われ21世紀の新渡戸とならん』『われOrigin of Fireたらん-がん哲学余話』『がん哲学外来の話』『がん哲学外来入門』など多数。内村鑑三、新渡戸稲造、南原繁、矢内原忠雄を「新・代表的日本人」として尊敬している。

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