
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。(ヨハネの福音書3章14、15節)
これは、イエスを神の御子と信じる信仰によって、永遠の命が与えられることを示す箇所です。ここでイエスは、旧約聖書の民数記21章に記された、モーセが荒野で青銅の蛇を掲げたエピソードを引用しました。
蛇は悪魔の象徵であり、罪の象徴です。イスラエルの民が、荒野で神に不平を言ったため、神は燃える蛇を送り、多くの者がその蛇に噛まれて死にました。しかし、モーセが作った青銅の蛇を仰ぎ見た者は、救われました。
この出来事は、イエス・キリストの十字架を予表するものでした。イエスは、モーセが蛇を上げたように、ご自身も上げられなければならないと述べました。
これは、イエスが十字架にかけられ、呪われた者として死ぬことを意味しています。十字架のイエスを仰ぎ見るとは、イエスを神の御子と信じることです。イエスを信じる者は罪が赦(ゆる)され、永遠の命を持つことができるのです。
蛇を見上げた民は、蛇にかまれても、生きることができました。つまり、モーセの青銅の蛇は、十字架につけられたイエス・キリストご自身のことを表していたのです。
イエス・キリストが十字架で死なれたことによって、救いは完成されました。私たちは、律法を守ることによって救われるのではなく、ただイエス・キリストを神の御子と信じる信仰によって救われ、天の御国に入ることができます。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネの福音書3章16〜18節)
この聖句は、神であるイエスの限りない愛と、信仰による救いを示しています。神は、イエス・キリストを与えるほどに、世を愛されました。この愛は、人間が理解し得ない、自己犠牲を伴う真実の愛です。神が御子イエスを世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためでした。
人間は、罪を犯す存在です。しかし、罪のない御子イエスが、私たち人間の身代わりとなり、十字架刑で死なれ、3日目に復活されました。それを信じる者は救われ、天の御国に入るのです。
世という言葉は、罪を犯して神から離れてしまった人間全体を指しています。神は、不完全で罪を犯してしまう人間を深く愛し、神の御子イエスを世に与えるという方法で、人類救済計画を完成されました。
この聖句は、神の愛と救いの真理が凝縮された言葉です。聖書の福音は、イエスが世界を創造した神の言葉(ロゴス)であり、人間の姿をとってこの地上に現れたこと、そして、十字架の死によって救いを完成され、それを信じる者が皆、救われることを伝える、喜びの知らせなのです。
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