主人は言った。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(新約聖書・マタイによる福音書25章21節)
準備や素地がなければ、教えられるわけがない
以前、高校の物理教師であった父に、問題の解き方を教えてもらおうとしたことがあります。父は私が持ち込んだ問題を一目見て、いとも簡単に「こうだろ? で、こうなるだろ? そうしたら、この公式をここに入れたら・・・ほらできた!」と、すらすら解いてしまいました。
私は、なぜこの公式をここで使うのか理解できなくて聞きにいったので、「どうして、この公式をここで使うの?」と聞くと、どうやらそれが父にはピンと来なかったようです。今はどうかは別にして、父が教えることを理解できるセンスが、当時の私にはなかったのです。結局、けんか別れになってしまいました。「できる人には、できない人の気持ちは分からない」と言われている通りです。「教える」という行為は、「教えられる側に準備や素地があること」が前提となるのです。
保育施設を利用している子どもたち(未就学児)は、基本的にはまだ一般的な「教える」という概念が通用しません。5歳児の後半ならいざ知らず、3歳未満であれば、言葉で教えられても理解できることは限られています。一応、「分かった?」と聞けば、彼らも「うん」と答えはします。しかし、それだけなのです。「教える」だけではダメなのは当然で、その前に、やる気(モチベーション)を持ってもらわないといけないですし、教える側にも相当の準備が必要なのです。
保育の態度
「保育の態度」という言葉があります。これは、「誰それの態度が悪い」というような個人の態度ではなく、「保育そのものの運営やそれに対する備え、結果を受け止めるための心構え」などを指して使う保育界の言葉です。園児一人一人に向けられるものと、クラスなどの集団に向けられるものの二つに分けられますが、どちらも同じようなものなので、一括して説明します。
冒頭に紹介した私の経験のようなゴタゴタは、この「態度」が整っていないことを物語っています。整理すると、教えようとした父には、息子の分からない部分を理解しようとした形跡がありません。仕事から帰ってきたばかりの父には、そのような準備はできていなかったのです。それに対して、私も教えてもらえばすぐに理解できるだろうと、たかをくくっていたわけです。このような状態のとき、「態度が明確になっていない」と考えます。
次に、どのようにしてそのような状態を乗り越えるかを考えなければなりません。スキルの程度の差こそあれ、ほとんどの幼児は、教えてもらう態度に自分から到達することはできません。また、私の父のように、教える対象の子の理解レベルを把握しきれていない状態では、いくら優秀であったとしても、教える人・教えられる人双方が望む結果を得ることはできないのです。
表題の言葉をご存じの人も多いと思います。連合艦隊司令長官であった山本五十六の言葉から取ったものです。山本五十六は、部下の教育に対する考え方を次のように述べていたといいます。
やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。
この言葉の前半部分は、江戸時代中期に名君とうたわれた米沢藩9代藩主、上杉鷹山(ようざん)の「してみせて、言って聞かせて、させてみる」が原型のようです。ここに「褒めてやる」を入れたのが、山本五十六らしさといえるでしょうか。
山本五十六が言ったこの言葉は、あくまで「部下」に対するものですから、対象は大人です。大人に対してもそうなのですから、幼児に対する教育的な促しはこれを基本としつつ、さらに工夫が必要なことはご理解いただけると思います。
「やってみせ」
子どもは周りの大人を観察しています。そして、大人たちの行為を何とかして自分の行動に取り込みたいと思っています。1歳児も後半になってくると、大人が運んでいる荷物に手を触れて一緒に歩いたりします。この時に「手伝ってくれるの? ありがとう」と声をかけると、にっこりほほ笑んだりします。これは、「大人と同じことをしたい」という彼らのやる気(モチベーション)の現れです。
「やってみせ」とは、保育の態度では、子どもの目線を絶えず意識することです。子どもが憧れを持って保育士の一挙手一投足を見つめていることを、理解することなのです。こう考えれば、「やってみせ」は、わざわざ「させたいことをやってみせる」ことではないことが分かってくるのではないでしょうか。
「言って聞かせて」
とは言え、保育士の一挙手一投足が即教育につながるということはあり得ません。どうしても「言って聞かせて」の部分が必要になります。この場合、保育士は自分の言っている言葉を、その子が理解できているかをしっかりと把握する必要があります。
遠城寺式乳幼児分析的発達検査表に基づけば、言葉3つ程度を言えるようになるのが、概ね1歳4カ月です。空腹や疲労、寒いことを理解し、対応できるようになるのが概ね5歳、反対類推ができる(「火は熱い。では、水は?」などの質問に答えられる)のが6歳前後です。相談を受ける保育施設で「どうしてそうなったの?」と保育士が子どもに説明を求める場面を時々見受けます。しかし、それに答えられる子どもは、年長児でも稀有な存在なのです。
ちなみに言うと、「困難なことに出会うと助けを求める」ことができるようになるのが、概ね1歳6カ月、「こうしていい?と許可を求める」に至っては、3歳3カ月前後になってできることなのです。ですから、どれだけ理論的に説明しようとしても、実際にそれを聞いている子どもたちにとっては「???」となるのは仕方がありません。このように考えてみれば、まず大切なのは「困ったときには手近な大人に聞く」という保育の態度(いつでも大人に助けを求められる環境)であることが分かります。
保育の現場において「言って聞かせて」は、子どもの「やりたい」を受け入れ、またそれを見守りながら、適宜気付きやアイデアを共有していくことを意味しているのです。
「させてみて、褒めてやる」
これまで述べてきた通り、幼児ができることはたかが知れています。それを前提とした上で褒めることになりますから、褒めるべきポイントを明確に意識しなければなりません。子どもは褒められることに飢えています。「褒められる体験は、自己肯定感を育てる」と言われている通りです。
しかし、「褒める」ことが「ご褒美」のように用いられている場面によく遭遇します。これは、課題を出し、その課題をこなせたことを評価するのが「褒める」ことだと誤解しているためです。これでは、他者に依存した肯定感を高める結果になり、絶えず他者の評価を気にする結果になってしまいます。本来、子どもが必要としている「褒められる」という体験は、一緒に喜んでくれることなのです。
ごっこ遊びは訓練?
何となく手伝った気にさせるところから、本当に一人でできるようになるまでの間に、ごっこ遊びが存在します。ここに、ごっこ遊びの偉大な価値があります。ごっこ遊びであれば、失敗したところで大笑いするだけのことです。避難訓練なども上手な保育士であれば、ごっこ遊びの延長にしてしまいます。そして実際、効果は非常に高いものになります。
結局のところ、幼児に対する教育の成果は、ごっこ遊びによる繰り返しの賜物だということになります。ごっこ遊びは、言い換えれば、子どもが自分に課している「訓練」です。警察官、消防士、自衛官、医師、看護師などは、訓練をする中で自信を持つようになるので、困難な時にも、必要なことを淡々とこなしていくことができます。子どもたちも、ごっこ遊びという「訓練」によって、何回も、何回も繰り返していく中で、自分の中に自信を育てていくのです。そして、この繰り返しの中で得られた体験は、その子の人生の大切な柱になるのです。(続く)
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