ずいぶん前、中近東に行かれた方の話です。ふと目に留まった「長い果実」に興味を覚え、いろいろ聞き、「メロンだ」というので手に入れました。それなりの手続きをされました。ところが期待に反してキュウリだったのです。がっかり感は想像できますね。完熟した果実がよく似ているものもあるからでした。
キュウリと聞けば、細長い果実を思い浮かべます。私がほぼ30種類の中近東のメロンを作ったときは、皆丸型から長楕円形で、色、模様、ネットの有無、その程度などはさまざまでした。確かにキュウリとメロンは似ていて、このときは一見して「メロン」と分かるものばかりでしたが、両者は学名の属も同じククミス属です。しかし、交雑はできません。染色体の数が異なっています。キュウリは14本、メロンは24本です。メロンは5〜6キロの大きさくらいまで大小と外皮色の変化が加わり、各形質の幅がかなり広いです。メロンの原産地はアフリカの中央部ですが、第2次原産地が中近東と中国ですので変異の多さにはうなずかせられます。
外観の色は緑、黄、だいだいなどの濃淡、白、それに網目のありようとの組み合わせでさまざま、単色あり、ふ入りありです。果肉の色も白、黄、緑、サーモンピンクなどです。完熟すると、とろけるようなメルティング質でおいしい、ご存じのようにこれはネット系に多いです。柔らかいけれどメルティング質にならないものがあり、外観が黄色、白色などで表面に凹凸のしわがあるものは、秋に収穫して冬まで取っておけます。それで冬メロンと呼ばれています。小学生の頃、種ごとよく食べたウリはバリバリしていたことを思い出します。特に種のあるトロッとした部分が甘味を増すと食べごろ。甜瓜(マクワウリ)です。果肉もある程度糖度があります。これには地方種があり、少しずつ異なっています。他に、奈良漬のウリは完熟しても糖度は高くなりません。これらは皆メロンの仲間です。
次に、初めはキュウリのような歯ごたえがあり、完熟すると水分がなくなりモロモロする肉質に変わり、落とすとバラバラに崩れてしまうメロンです。興味深いですが食味はいまひとつ。これは細長い棒状のもので、恐らく日本では珍しいメロンです。
一方、キュウリの完熟果の形は棒状、長さは30センチくらいから70〜80センチまで、色は淡い黄から濃い黄褐色まで、白色もあります。この白い系統の卵型の幼果を、私はメロンと間違えました。でも、完熟果は卵の形と相似ではなく、短めの棒状になります。ですから先の旅行者のようなハプニングも少なからずあると思います。外国の市場は面白く、飽きない場所です。プラントハンターの気持ちを幾分味わえる所です。
「種類ごとに・・・創造した」と、聖書は語ります。「種類ごとに」が15節あるうちに10回繰り返されています。まさに強調点です。創造者としてのこだわりです。植物についても「神は仰せられた。『地は植物を・・・種類ごとに・・・芽生えさせよ。』すると、そのようになった。地は植物を・・・種類ごとに生じさせた。神はそれを良しと見られた」(創世記1:11、12)のです。神の心が秘められた繰り返しです。念を押しているのです。
創造の秩序と神の知恵の深さの現れです。個人的にはメロンの品種改良には妙味を覚えます。キュウリ(ククミス・サティヴス)の形質の幅は広くありません。人にとってメロン(ククミス・メロ)は味、食味を楽しむ種類、キュウリは歯ぎれ、歯ごたえなどの食感を豊かにし、耳で食べる種類だと、私は思います。神は異なった目的を持たせ、互いに補い合うように造られました。
ウリ、ナス、豆、しそ、ユリ、稲。食べられる作物を挙げましたが、その名を聞いたとき何かしらを思い浮かべられたのではないでしょうか。それぞれに「科」をつけると分類名になります。これが「種類ごとに」の意味です。小麦、大麦はイネ科です。前述のキュウリとメロンはウリ科です。ナス科もトマトやジャガイモなど実をならせます。ウリ科の花は単性花と両性花が混じりますが、ナス科は両性花のみです。マメ科の果実はさや状で、完熟すると乾いた実となり、花も基本的には蝶形花冠という変わった形、またきれいな色をしています。スイートピーはここに入ります。
このように「種類ごとに」とは多様性と統一性という創造の原理、神の知恵を示していると思います。しかもすべての生き物の命を支える共通の目的を持っています。必要な栄養素はすべてのものに分散されていて優劣は全くなく、それぞれが無くてならない存在なのです。食物連鎖として命の継続と循環において、それぞれが神の栄光を現します。
しかし、人が造られたときにはこの言葉はありません。「『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう』・・・神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された」(創世記1:26、27)
「われわれ」とは、三位一体の神ご自身です。「父、子、聖霊」の三位を指しています。「かたち」は英訳では「イメージ」とあり、三位間の「完全な愛の交わり、人格的な交わり、一つとしての在り方」を指し、この神の愛の交わりの中に、神と交わる霊的存在として人を造られました。人をギリシャ語でアンスローポスといいますが、「上を見上げるもの」という意味です。他の造られたものと本質的に異なっています。
「あなたこそ 私の内臓を造り 母の胎の内で私を組み立てられた方です。・・・私が隠れた所で造られ 地の深い所で織り上げられたとき 私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ あなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々が しかも その一日もないうちに」(詩編139:13〜16)
主なる神は一人一人を特別に造っておられるのです。だから私たちは一人の人間として隣人と比べたり、比べられたりしないよう、ないものねだりしないように、個性が与えられ、生かされていることをあらためて覚えます。ここに幸いと祝福があるのではないでしょうか。
パウロの言葉を思い出します。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい」(ローマ12:3)
あなたも私も創造者なる神に「良し」と確認された存在です。そして「種類ごとに」造られたこの世界を「上を見上げるもの」として、神と共にそれぞれに合った形で治める使命が与えられています。
「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、・・・すべてのものを支配するようにしよう」(創世記1:26)
神の栄光を現すという人生の目的も、ここにあると思います。ちなみに、キュウリ以上に細長いメロンについては、拙著『聖書の植物―草と木に託されたメッセージ』をご覧ください。
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