“インマヌエル” の実現としてのペンテコステ 市川康則

2020年5月31日08時01分 執筆者 : 市川康則 印刷

今年もペンテコステを迎え、聖霊のご降臨を特別に覚え、祝う時となりました。主なる神様の確かな導きを覚えて、感謝する次第です。今、新型コロナウイルスの感染防止のために、教会の集会・行事・伝道活動がストップしていますが、しかし、このような時でも、否、このような時にこそ、あらためて神様こそ、私たちと全世界の真の、唯一の支配であり、コロナの出来事もその下にあることを覚えて、神様をこそ恐れ畏(かしこ)み、信じ従いましょう。そして今、信仰と知恵が試され、鍛えられていることを覚えましょう。

さて、ペンテコステとは50番目(の日)という意味ですが、救い主イエス・キリストの復活の日から(その日を含めて)50日目に、キリストに代わる助け主(弁護者)である聖霊なる神が地上に降られましたので(使徒言行録2章)、この出来事を覚える日として「ペンテコステ」と言い慣わされてきました。この出来事は、私たち罪人が救われるための不可欠な神の恵みの御業として、イースターと共にしっかりと記憶され、大いに祝われるべき出来事です。ここでは、聖霊のお働きの特徴を確認し、いっそうそれに生かされ、そして聖霊なる神の器として福音宣教に用いられたいと願います。

聖霊なる神の御業の目的

聖霊なる神の御業の目的は、御子なる神であるキリストの御業――十字架の死と復活に代表される罪人の贖(あがな)い――が現実に実を結ぶこと、すなわち、罪人が罪を悔い改め、キリストを信じ受け入れて救われることです。罪人は自ら神を求めることができず、また、救いに必要な神の御心についての知識も、それを行う力もありません。聖霊が、ご自身の霊感によって与えられた聖書(神の言葉)を通して、イエス・キリストを罪人の心の中に証ししてくださり、そして、罪人がそれを正しく理解してキリストを信じることができるようにしてくださってこそ、罪人は救われるのです。

聖書が教えている神は三位一体の神ですが、父なる神は罪人の救いの計画を立て、準備し、御子なる神は人となって、罪人に下される神の裁きを十字架上に受け、同時に人が義とされるために求められていた神の御心を完全に守り行われ、それに対する祝福として死者からの復活に与(あずか)られました。そして聖霊なる神は、このキリストの御業が現実に実を結ぶ――罪人が救われる――ために、キリストの昇天後、地上に降臨されました。もし聖霊が降臨されなかったら、たとえキリストの死と復活が事実であっても、それは2千年以上も前にユダヤの片隅で起こった一つの出来事にすぎません。それが歴史を通じて、世界中で大きな意義を持つ出来事となったのは、聖霊なる神の降臨と御業の故であります。復活の主ご自身が昇天直前に使徒たちに予告された通りです(使徒1:8)。ですから、私たちがイースターと共にペンテコステを今まで以上に感謝し祝うことは、重要であり、有意義なことではないでしょうか。

聖霊なる神の御業の特徴

聖霊なる神の御業の特徴を、キリストの御業の特徴と比較して確認しましょう。まず、キリストは唯一の救い主として、父なる神から委ねられた務めをご自身によってだけ――他の誰もそれに参与、協力できない仕方で――果たされました(ペトロのつまずきはこのことの典型的、象徴的な現れです)。そして、キリストの御業は一回限りです。これに対して、聖霊は使徒たちや他の働き人たち、すなわち人間をご自身の器として主権的に、かつ恵み深く用い、キリストの贖いが広く豊かに実を結ぶようにされます(ユダヤ権力者の迫害を恐れないペトロたちの毅然(きぜん)としたキリスト証言はこのことの典型的、象徴的な現れです)。しかしながら、それでいて、人間は決して神に(神的に)なるのではありません。ペトロはペトロ、パウロはパウロという(救われた)罪人であり続けます。そして、聖霊の御業としての福音宣教は、世の終わりまで継続されていきます。

神の御子が人間として生きることを可能にされた聖霊

さて、聖霊は人間に臨み、内住してくださいますが、その前に、神の御子が人間になられることを可能にされました。キリストが真の人間であるためには、すべての人間と同じように、人間の母親から生まれなければなりません。しかし、ヨセフとマリアから通常の仕方で生まれてくるなら、罪人に他なりません。そして、罪人は自分の罪のために神に罰せられるだけで、他人の罪の贖いをすることなど全く不可能です。それ故、聖霊は未婚女性マリアに臨み、マリアが懐妊し出産するという方法を採られ、主イエスが真の人間として、しかも罪を(ヨセフを通して)受け継がないようにされたのです。

聖霊がマリアに臨まれ、主イエスが生まれ、そして使徒たちをはじめ、福音を聞く人たちに臨まれ、その人たちが主を信じて新しく(霊的に)生きる、のです。これがなぜ可能なのでしょうか。別の言い方をすれば、これは神にとって矛盾ではなく、首尾一貫していることなのでしょうか。これは、そもそも人間が神のかたちであることに基づいています。創世記1章では、神に「かたどり」「似せて」(26節)と記されていますが、本質的に同じ事柄が2章では、人間が管理する地との関係で言い換えられ、「土の塵(ちり)で人を形づくり」「鼻に命の息を吹き入れられた」(7節)と表現されています。人間は被造物にすぎませんが、しかし同時に、(神の)命の息を吹き込まれて生きる者となったという点で、独特の被造物(霊的、人格的存在)です。命や息は、旧約聖書における用法では、霊と――言葉は違いますが――実質的に同じ意味合いを持ち、同義的、互換的に用いられます。つまり、人間はその存在と本質において神の霊に生かされているのです。

それ故、聖霊が働いて、神の御子が人間としてマリアの胎内から生まれ、生きられたことも、また、罪人が救われるに際して聖霊が罪人に臨まれることも、創造の根源的出来事に基礎付けられており、後から生じた人間の堕落を打破し、凌駕(りょうが)して、創造の意図・目的を完遂させる出来事であったわけです。まことに、三位一体の神の首尾一貫した、主権的で恵み深い御業です。

インマヌエルの現実としてのペンテコステ

ところで、主の天使はマリアの夫ヨセフに、彼女の出産が旧約預言(イザヤ7:14、8:8、10)の成就であることを啓示しましたが、これを記した福音書記者は、その旧約預言にある、生まれてくる子の名「インマヌエル」の意味――神は我々と共におられる(マタイ1:23)――を教えてくれています。イエス・キリストは、神と罪人との間の唯一の仲介者です。私たちはキリストにあってのみ、神の前に出ることができ、神と共にいることができます。それ故、キリストはインマヌエルなる方です。

しかし、そのキリストによる贖いが実を結ぶ、つまり、人々が救われ、神の民とされるためには、聖霊の内住と働きが不可欠です。その意味で、ペンテコステの出来事こそ、神がご自身の民と共にいてくださることの現実化である、と言っても過言ではありません。オランダの牧師、神学者、政治家、文筆家であるアブラハム・カイパー(1837~1920)は、ペンテコステこそ十分な意味でインマヌエルである、と述べたほどです。聖霊は常に私たちと共におられ、私たちの内に住んでいてくださり、復活のキリストに結び付け、そして私たちの救いを完成してくださるのです。

市川康則

市川康則(いちかわ・やすのり)

1950年滋賀県生まれ。神戸市外国語大学、神戸改革派神学校、米カルヴィン神学校に学ぶ。日本キリスト改革派神港教会協力牧師、同千里山教会牧師などの傍ら、76年より神戸改革派神学校で教育に当たる。92年より同専任教授、2007~14年同校長を務める。14年より日本キリスト改革派千城台教会牧師。前日本カルヴィニスト協会会長、元日本福音主義神学会全国理事長、元日本福音主義神学会西部部会理事長。

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