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福音の回復

福音の回復(70)つまずき―なぜキリスト教につまずくのか?― 三谷和司

2018年9月29日10時58分 コラムニスト : 三谷和司
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関連タグ:三谷和司

キリスト教の存在を知らない日本人は、ほとんどいないだろう。それどころか、キリスト教系の学校や日曜学校に通ったことのある人、またキリスト教式の結婚式を挙げた人、そういう人たちは大勢いる。ところがイエス・キリストを信じ、教会に通うクリスチャンの数となると、日本人の1パーセントにも満たない。キリスト教を信じる人は、ごくわずかである。それはつまり、大多数がキリスト教の教えにつまずいているということになる。

キリスト教の教えに対する「つまずき」は、何も神を信じない人たちだけに起こることではない。クリスチャンになっても、教えを聞いてつまずく人たちは後を絶たない。イエスの時代も、多くの弟子たちがイエスの教えを聞いてつまずいた。イエスが会堂で、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません・・・」(ヨハネ6:53)という教えをすると、多くの弟子たちがそれを聞いて憤慨したのである。

そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」(ヨハネ6:60)

こうした現象が物語っているのは、キリスト教の教えは人にとって「つまずきの石」だということだ。そこで今回のコラムは、「つまずき」をテーマにしてみたい。なぜにキリスト教の教えは「つまずき」となるのか、そうしたことを深く考えてみたい。なお、御言葉の引用は記載のない限り新改訳聖書第3版を使用する。

【つまずきの石】

つまずきの石を置く

信じがたいかもしれないが、人が神の教えにつまずくのは、神が、わざわざ、つまずくようにされたからである。聖書には、次のように書かれている。

見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。(ローマ9:33)

何と、神がわざわざ「つまずきの石」を用意されたという。この世では愚かにしか聞こえない福音を、わざわざ用意されたのである。しかし、この「つまずきの石」に信頼する者が救われるという。聖書はその意図を、知恵によって神を知ることのないようにするためであり、ただ信じる者が救われるようにするためであったという。

事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(1コリント1:21)

では、神は一体どのような「つまずきの石」を置かれたというのだろう。なぜ、人はそれにつまずくのだろうか。それを知るために、キルケゴールの『死に至る病』の中に書かれていた話を参考に、『王からの伝言』という話を作ってみた。その話を読めば、神が置かれた「つまずきの石」とはどのようなものなのか、どうしてつまずくのか、そうしたことが容易に分かるだろう。

『王からの伝言』

昔々、絶対的な権力を持った王がいた。後にも先にも、その王を超えるような力を持った王はいなかった。まさに地上最強の王であり、誰もが彼にひれ伏し、たやすく近寄ることすらできなかった。そんな王が治める国に、ひとりの貧しい青年がいた。彼からすると、王は天の上の人であって、仰ぎ見ることすらできない存在であった。

貧しい青年は、いつものように朝から晩まで泥まみれになって働いていた。するとそこに、何と『王からの伝言』が届けられた。それによると、王は青年を、一人娘の花婿に迎え入れたいと言われるのである。

青年は驚嘆し、「うそに違いない」と思った。つまり、『王からの伝言』につまずいたのである。なぜなら、こんなことは目で見たこともなければ、耳で聞いたこともない、そして人の心に思い浮かんだこともない話であったからだ。

まさしく、つまずくとはそういうことであり、それは「驚嘆」にほかならない。神の備えてくださったものも、この『王からの伝言』と同様、みな「驚嘆」だったということだ。それで、「つまずきの石」になった。

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」(1コリント2:9)

人は、ほどほどの内容であれば受け入れられる。この『王からの伝言』でのほどほどの内容とは、例えばこうだ。「一生懸命に働く者には、褒美を授けよう」。これであれば、まことにありがたい話だと感激し、青年も素直に受け取ることができた。それなら、誰もが見たことのある話であり、聞いたことのある話であり、心に思い浮かべることができる話なので、抵抗なく受け取れるのだ。

しかし、一人娘の花婿に迎え入れたいという話となると、これはほどほどではなく、度が過ぎる内容となる。度が過ぎると、誰も信じない。だから青年が、このことを誰かに話しでもしたなら最後、町中の笑いものになる。すぐにうわさが広まり、「あの男、頭がおかしくなったぞ」と言われ、周りの人たちは敵となる。まことに神が用意された福音はそれと同じことであったので、イエスはこう言われた。

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。・・・さらに、家族の者がその人の敵となります。(マタイ10:34~36)

青年は、『王からの伝言』を喜んで周りに話しでもすれば、周りが敵となることを容易に想像できた。とはいえ、相手は王様、「これは冗談ですか」などと聞くこともできない。それで『王からの伝言』を喜ぶどころか、逆に苦しんだ。思い悩み、ひょっとしたら自分を苦しめるためにそのようなことを言われたのかと疑い、本当に頭がおかしくなった。

このように、人はほどほどの内容であれば善意として受け取ることができるが、度が過ぎると「つまずきの石」となる。ならば、キリスト教の話はどうだろう。そこで、今度は『神からの伝言』という話をしてみたい。これは作り話ではなく、実際にあった話となる。

『神からの伝言』

すべてのものを造られた、まことの王である神は言われる。誰であれ、等しく神の前にあり、24時間いつでも話を聞くから、何でも神に求めてみよと。そうすれば受け、そのことであなたがたの喜びが満ち満ちたものとなると言われる。

あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。(ヨハネ16:24)

それだけではない。神と私たちとは一つであるとまで言われる。だから、私たちのことを兄弟と呼ぶことを恥とはしないと言われる。

聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しよう」(ヘブル2:11、12、新改訳2017)

ただの兄弟ではない。神は、私たちの友になりたいとまで言われる。「わたしはあなたがたを友と呼びました」(ヨハネ15:15)。それは口先だけのことではなかったので、神は人と等しい姿となってこの地に来られた。ただ等しい姿になっただけではなく、輝きも、人が慕うような見栄えもない姿として来られた。

彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。(イザヤ53:2)

そのような姿で来られたわけは、身分に関係なく友になるためであった。たとえ罪人と呼ばれる人であっても、神はその人の友になりたいという思いが、その姿に現れていた。その姿をした方は「イエス」と呼ばれ、まことに罪人と呼ばれた人たちと交わられた。それで彼はさげすまれ、のけ者にされた。人が顔をそむけるほどにさげすまれ、人は彼を尊ばなかった。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53:3)

そうであっても、「イエス」は本気で私たちの友になりたいと、私たちの罪を背負い殺された。だが、よみがえられた。そのことで、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)を明らかにされた。そこまでして、「私たちの友となって、いつまでも一緒に生きていきたい」と、申し出てくださったのである。それだけではない。神は、わたしのものはすべて、あなたのものだとまで言われた。

父は彼に言った。「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」(ルカ15:31)

これが『神からの伝言』のあらましである。その伝言を届けてくださったのが、「イエス」と呼ばれた救い主なる神「キリスト」である。こうして人類は、『神からの伝言』をイエス・キリストから受け取った。

この話の驚嘆は、先ほどの『王からの伝言』と比べればその比ではない。『王からの伝言』が届くことですらあり得ないのに、これは王の中の王、『神からの伝言』なのである。しかもその内容は、私たちが罪人であっても友として迎え入れたいというものであり、私たちのためならばいのちさえ惜しまないし、わたしのものは、全部お前のものだとまで言われるのだ。神のものとは、「永遠のいのち」にほかならない。

つまり、私たちの罪を赦(ゆる)し、神の「いのち」である「永遠のいのち」を無償で与えるということである。あの“神”が、いのち懸けでそうした申し出をされたのだ。それはまさしく、一生寄り添う神の花婿、あるいは花嫁として私たちを迎え入れたいということを意味する。

というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。(2コリント11:2)

このように、『神からの伝言』はほどほどの話なのではない。あまりにも度が過ぎた話であり、それは見たことも聞いたこともなく、人の心に思い浮かぶような内容ではまったくなかった。ゆえに、人はただただ驚嘆するしかない。この「驚嘆」がつまずきの正体である。まことに神が用意された福音は「驚嘆」であり、「つまずきの石」であった。

つまずかせる意図

「驚嘆」こそ、つまずきである。ならば、『神からの伝言』は、どうすれば受け取れるのだろう。それは、ただ「信じる」しかないというのが結論になる。ほどほどという常識の範疇には収まらない以上、信じるしかない。しかし、信仰によって神を求めることをしないで、常識という「人間的な標準」で神を知ろうとするから、つまずくのである。「人間的な標準」が支持する行いによって、神に近づこうとするからつまずいてしまう。

なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。(ローマ9:32)

「つまずきの石」となった福音を乗り越えさせてくれるのは、人の知恵でも、行いでもない。ただ「信じる」という信仰だけが、「つまずきの石」を乗り越えさせ、それを受け取らせてくれる。また、信仰で乗り越えなければ意味がない。信仰以外の手段でつまずきとなった『神からの伝言』を手にしても、そこには信仰が働いていないのでまったく意味がない。なぜなら、神が人に求めているのは、何があってもキリストのうちにとどまろうとする信仰であり、何であれ神を信頼する心にほかならないからだ。

そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。(1ヨハネ2:28)

ゆえにイエスは、わたしの福音を見たり聞いたりしたとき、「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです」(マタイ11:6)と言われた。ただ信じるようにと言われた。弟子たちが、「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか」(ヨハネ6:28)と聞いてきたときも、次のように言われた。

イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」(ヨハネ6:29)

そこで、質問してみたい。ある王が、自分を王としてではなく、普通の人と同じように接してもらいたいと思い、あえて身分を隠し、普通の人と同じ姿となったとしよう。その場合、やはり相手は王なので、あくまでも王として従順に接すべきなのだろうか。それとも友として接し、何でも相談し、一緒に生きていくべきなのだろうか。

言うまでもないが、王が喜ぶのは友として生きることである。確かに、そのことは人の常識からすると「つまずきの石」でしかない。だから人は、普通の人となった王を、あくまでも王にしようとする。そして、行いによって王に近づこうとする。その褒美に、王から救いを手にしようとする。しかし、それはまったく王の望むところではない。王である神が望まれるのは、人となって来られたキリストを私たちがそのままで受け入れ、ただ信じることであり、それを義とされるのだ。

すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。(ローマ3:22)

それゆえ、神はあえて「つまずきの石」となり、人に信仰を求められた。神がそうした福音を用意されたのは、「信じる」信仰で神と接してもらいたいからにほかならない。だが、弟子たちの多くはその意図を理解しなかった。ただ普通に、「人間的な標準」で神を知ろうとし、つまずいたのである。その様子を見てみよう。

つまずく弟子たち

イエスの伝えた福音は「つまずきの石」であったから、ただ信じるしかなかった。しかし、弟子たちはイエスがカペナウムの会堂で語る福音を聞いたときにつまずき、憤慨して去って行った。その時の教えは、次のような言葉で始まった。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。(ヨハネ6:53)

イエスは何と、ご自分の肉を食べ、ご自分の血を飲む者は生きると言われたのである。この内容は、人の心に思い浮かぶような内容ではなかったため、当然のことながらそれを聞いた弟子たちは「驚嘆」した。しかし、多くの弟子たちは「驚嘆」を信仰で乗り越えようとはしなかった。あくまでも「人間的な標準」で神を知ろうとし、つまずいたのである。

そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」(ヨハネ6:60)

イエスは、こんなことでつまずくのかと嘆き、次のように言われた。

しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか」(ヨハネ6:61、62)

イエスはここで、ご自分が十字架で殺され、そのあと復活し、元いた天に上るのを見たなら、もっとつまずくことになると言われた。まことに神が用意された福音は、誰も見たことも聞いたこともないものであったのだ。人の心に思い浮かぶような内容ではなかった。

目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。(1コリント2:9)

そうであるから、信じるしかない。しかし、弟子たちの多くはこの時、あくまでも「人間的な標準」で神を知ろうとした。そのため、つまずいてしまった。こうして彼らは、イエスのもとを去って行った。「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった」(ヨハネ6:66)。

このように、神の福音はつまずくようになっている。それは、自分の知恵によって神を知る者を救うのではなく、つまずくしかない愚かな宣教の言葉によって、信じる者を救おうと神が定められたからだ。

事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(1コリント1:21)

従って、「つまずきの石」である福音を、人が勝手に「つまずかない石」などにしてはならないのだ。「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです」(2ペテロ1:20)。そんなことをすれば、キリスト教はただの知識や倫理になり、信仰など不要になってしまう。神が人に求めているのは、ご自分を信頼する信仰であり、それを土台に友のような関係を築くことなのだから、神の福音は、「つまずきの石」のままにしておかなければならない。

「つまずかない石」にすべきは神の福音ではなく、私たち自身の生き方である。私たちは人をつまずかせないようにする必要がある。そうでないと、救いの妨げになるからだ。「ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。私も、人々が救われるために、・・・」(1コリント10:32、33)。しかし私たちには、「つまずきの石」であるべき福音を、つまずかない福音にしてきた歴史がある。今度は、そうした過ちを見てみよう。題して、『つまずかない石』である。

【つまずかない石】

罪へのつまずきを取る

多くの人がつまずくのは、「罪」に対する教えである。というのも、キリスト教の教える罪と、人の知る罪がまったく異なっているからだ。人が知る罪とは「人間にとって有害な行い」であったのに対し、キリスト教では、キリストを信じないことを罪とする。別の言い方をすれば、それは神の呼びかけに応答しないことであり、心の奥底で神の声を聞いても神に助けを乞わないこと、それが罪として問われ、その者は滅びると教える。ゆえに、キリスト教では罪に対極するのは「信仰」であって、この世の人たちが考える「徳」ではない。それゆえ、罪に対するキリスト教の教えは「つまずきの石」となった。

そこで、その教えを「つまずかない石」にしてきた歴史がある。その歴史を見る前に、どうして罪がキリストを信じないことなのか、その説明をし、どのように罪の教えを「つまずかない石」にしたのかを見ていこう。

キリスト教が教える「罪」は、アダムの時代に何が起きたかを知れば容易に理解できる。その昔、悪魔の仕業でエバは罪を犯した。次に、エバを通してアダムが罪を犯した。それ以来、人は神との結びつきを失ってしまった。これを「死」が入り込んだというが、この「死」のせいで、神が問う罪は神の呼びかけに応答しないこと、すなわち信じないこととなった。そのわけはこうである。

神だけが永遠なので、人の中に神との結びつきを失う「死」が入り込むと、もともと据えられていた「永遠のいのち」は自動的に機能しなくなる。永遠には生きられない姿になる。それが今日の私たちの姿であり、見た目は生きているように見えても永遠なる神からすると、それは死んだ者なのである。アダム以来、すべての人は死んでしまい、人が生きるようになるにはキリストを信じ、再び神の結びつきを取り戻す必要があった。

すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。(1コリント15:22)

そこで聖霊なる神は、人に神との結びつきを取り戻させようと、誰の魂にも呼びかけてくださる。「この手に掴まりなさい」と。だから死人となった私たちは、この神の呼びかけを聞いて応答するなら、すなわち御手に掴まるなら再び生きる者になれる。永遠なる神との結びつきは回復し、据えられていた「永遠のいのち」が働くようになる。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。(ヨハネ5:25)

そうした事情から、神が死人となった私たちに問う罪は、神の呼びかけに応答するかどうかだけである。聞いて応答することを「信じる」といい、「信じる」かどうかだけが問われる罪となった。神の呼びかけは聖霊なる神が担当されるので、聖霊を無視する(けがす)ことだけが罪として問われ、他のことはすべて赦していただける。

まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす(無視する)者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。(マルコ3:28、29) ※( )は筆者が意味を補足

つまり、「この手に掴まりなさい」と、神が差し出されたキリスト(御子)を信じようとしないことだけが罪に問われ、それ以外は裁かれないのだ。そもそも人は死んでいて、既に裁かれた状態にあるからそうなる。

御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。(ヨハネ3:18、新共同訳)

ここで「裁く」という意味に訳されるギリシャ語は「クリノー」[κρίνω]で、本来の意味は「分ける」(separate)である。人は既に神とは分けられた状態にあるので、「信じない者は既に裁かれている」と書かれている。どういうことか、もう一度分かりやすく説明しよう。

本来人は神の部分として造られたが、「私たちはキリストのからだの部分だからです」(エペソ5:30)、それが悪魔の仕業で神とは分けられた状態になった。これを「死」というが、分けられた状態にある者は滅びるしかない。それはちょうど、折れた枝と同じである。枝は幹につながっているときは生きられるが、折れると枯れるのを待つしかない。ゆえに、折れた枝と同じ状態にある私たちが生きられるようになるには、神という幹に「接ぎ木」されるしかない。この「接ぎ木」が、御子を信じるということになる。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」とは、そういう意味である。

このように、生まれながらの人は死んでいるので(神とは分けられた状態にあるので)、キリスト教が教える「罪」とは、神との「接ぎ木」を拒むことになる。それは神が差し出されたキリストを信じようとしないことであり、これを「不信仰」という。「それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります」(ヘブル3:19)。キリスト教が教える「罪」とは、あくまでも「キリスト」に対してどうであったかであって、それ以上でも以下でもない。「罪」とは、あくまでも人間と神との間の争いなのである。信じさせようとする神と(「接ぎ木」しようとする神と)、それを拒む人間との争いである。

以上が、キリスト教の教える「罪」であるが、これは未信者からすれば「つまずきの石」の何ものでもない。なぜなら、この世では「人間にとって有害な行い」を罪とするからだ。しかしキリスト教では、「キリスト」を受け入れるかどうかだけが罪であって、「人間にとって有害な行い」は罪としては問わないというのだから、それは「つまずきの石」でしかない。罪に対峙するのが「徳」ではなく「信仰」なのだから、「人間的な標準」では到底受け入れられない。

そこでキリスト教側は、罪を行いで定義した。この世の目線に合わせ、「人間にとって有害な行い」を罪とした。確かに聖書も、「人間にとって有害な行い」も罪とはしているが、それは神を信じないことの罪とは分けている。原語を見ると、そちらの罪は一般に複数形で表現され、本来の「罪」は一般に単数形で表現されている。正確に言うと、「人間にとって有害な行い」は、神との結びつきがないことの不安から生じるので、すなわちキリストを信じようとしないことの「罪」から生じるので、そちらは「罪」の複数形になる(参照:福音の回復(48))。

いずれにせよ、大事なのは死人が生きられるようになることであり、それには神の呼びかけに応答するしかない。人には「意志」が与えられている以上、自らが受け取るしかない。受け取ることを「信じる」というので、神が問う「罪」はあくまでも「信じる」か、信じないかだけとなる。だが、罪を行いで定義したことで、本来の「罪」は姿を潜めてしまった。

こうして、罪を取り除く神の福音はただの倫理となり、キリスト教は「キリストを信じなさい」ではなく、「罪を悔い改めよ」となった。罪を反省し、「良い行い」をするよう教えた。これは多くの人に受け入れられたが、信仰だけで救われ、罪が赦されるという教えは有名無実となった。自らの努力で罪に勝利し、その褒美に救いを手にするという話になった。しかし、聖書はその考えを拒否する。

人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。(ローマ3:28)

見てきたように、私たちは罪を行いで定義することで、罪を倫理とし、「つまずかない石」にしてきた歴史を持つ。しかしその結果、人々はキリスト教の倫理観には好感を持つも、自分は法律に違反するような罪は犯していないので、キリスト教に頼るまでもないとなった。倫理観への好感は同時に、こんな厳しい倫理まで要求されたのではついて行けないと、敬遠も起こさせてしまった。例えば、酒やたばこをやめなければクリスチャンになれないのなら、自分には無理だといった具合に。

こうした罪の理解に対する過ちを厳しく指摘したのが、あの有名なキルケゴールであった(参照:『死に至る病』講談社、140~158ページ)。では、さらに「つまずきの石」を「つまずかない石」にしてしまった話をしよう。

創造論へのつまずきを取る

20世紀になると、神を否定する強力な科学が台頭してきた。それは進化論である。人は神によって造られたのではなく、進化の過程を通して誕生したとした。この宇宙は進化していて、その中で人類は誕生したとし、神が人を創造したというキリスト教の創造論を荒唐無稽の話にした。これで、キリスト教は誰の目にも「つまずきの石」となった。

そこでキリスト者の中には、この「つまずきの石」を何としても「つまずかない石」にしようとする試みが起きた。どうしたかというと、神は進化の過程を踏んで人を造られたとしたのである。これを有神論的進化論というが、これであれば確かに「つまずかない石」になる。だがそのことで、信仰は知識に座を奪われてしまった。キリスト教の教えは複雑な概念になり、概念を理解することが信仰だと勘違いされるようになった。問題はそれだけではない。神の福音そのものが、おかしな方向に行ってしまったのだ。その話を少ししたい。

神は、人を進化の過程で造ったとなれば、神が「死」を創造されたことになる。進化とは「死」を繰り返すことなので、当然そうなる。となると、「死」をつかさどるのは神となり、神の福音は行き場を失ってしまう。なぜなら、聖書は一貫して「死」は神の敵であり、それは悪魔がつかさどっていることを教えているからだ。ゆえに神は、悪魔を滅ぼすことで、人々を「死の恐怖」の奴隷から解放することを教えている。

ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。(ヘブル2:14、15、新共同訳)

さらに聖書は、悪魔の仕業でアダムが罪を犯し、その罪によって「死」が入り込み、その結果、人は罪を犯すようになったことを教えている。

それゆえ、ちょうど一人の人を通して罪がこの世に入り、罪を通して死が入り、まさしくそのように、全ての人たちに死が広がった。その結果、全ての人が罪を犯すようになった。(ローマ5:12、私訳)

「死」が人を支配したことで、罪が君臨するようになったのである。「それは、罪が死によって支配したように」(ローマ5:21)。「死のとげ」が、罪であった。「死のとげは罪であり」(1コリント15:56)。だからパウロは、罪を犯す自分のことを、「だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:24、新改訳2017)と言った。

従って、神は進化の過程を踏んで人を造られたとなると、「死」は神が創造したことになるので、聖書は一貫して「死のとげは罪であり」(1コリント15:56)と教える以上、神こそが罪の生みの親になってしまう。神が罪の創造者であり、神が神の敵になってしまう。神は人に罪を犯させるために「死」を背負わせ、その罪を赦すために十字架に架かられたという、わけの分からない話になってしまう。まことに神の福音は行き場を失ってしまうのだ。

無論、そうならないよう神学者は工夫した。例えば、人には善か悪かを選択できる「自由意志」があるとし、「自由意志」で罪を犯す矛盾を覆い隠そうとした。しかし、「自由意志」に罪の責任を被せたところで、その「自由意志」は神の創造ゆえに、やはり神が罪の創造者になってしまう。それだけではない。罪が「自由意志」からとなれば、罪は人が自らの意志で解決する問題となる。罪を取り除くのに必要なのは人の努力であって、罪を取り除くキリストの贖(あがな)いは有名無実となる。キリストへの信仰は不要になる。

このように、進化論によって「つまずきの石」とされた教えを、あるキリスト者たちは「つまずかない石」にすべく、キリスト教を科学と融合させようとしてきた。だが、そのことで神を人の知識の下に置くという代償を支払うことになり、神の福音は迷走し、罪が赦されるという信仰を二軍に追いやってしまったのである。

しかし20世紀は、キリスト教が教える創造論が進化論によって「つまずきの石」とされても、それで構わないとしたキリスト者も大勢いた。彼らにしてみれば、キリスト教が正真正銘の「つまずきの石」とされたことで、真に信仰が求められるようになった。

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(ヘブル11:3)

そこで彼らは「つまずきの石」を熱心に信じて伝道し、20世紀はかつてないほどに多くの人がキリスト教を信じるようになった。キリスト教が全世界に広まり、信仰に燃える熱心なクリスチャンが世界中に起こされたのである。では、さらに「つまずきの石」を「つまずかない石」にしてしまった話をしよう。

最大のつまずき

人々が最もつまずいたのは、イエスが「キリスト」だということでもなければ、イエスがよみがえったということでもない。なぜなら、そうした類いの神話は他にもあったからだ。ならば、何に一番つまずいたのだろう。それは先にも述べた罪へのつまずきにも関連するが、罪が無条件で赦されるという教えにほかならない。無条件で罪を赦すから、神との関係を回復しようではないかという申し出につまずいた。もしこの申し出につまずいていなければ、人は自分の罪に絶望するようなことはないからだ。罪を見て、裁くことなどしない。しかし、クリスチャンになっても罪を見て裁く者は後を絶たない。

このことは、罪を赦すからと言われる神の申し出に、いまだにつまずいていることを物語っている。いや、罪を裁く者たちは神に盾突いている。人や自分の罪を見て平気で裁けるということは、神は罪を赦すと言うのに、「罪は赦されないのだ」と反抗しているのである。本人にそのような自覚がなくても、罪を赦すという神の申し出に対し積極的につまずいている。イエスが「キリスト」だということを信じられても、罪は赦されるという教えは信じられないということだ。こうした裁く者が絶えないという事実が、罪が赦されるという教えが最大のつまずきであることを証ししている。

確かに、この世界では罪が無条件で赦されるなどということはあり得ない。罪の重さに応じて罰を受ける。しかし神は、どんな罪であっても赦されると言われる。「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます」(マタイ12:31)。それで、人は神につまずく。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」(ヨハネ6:60)と。

その昔、このつまずきを取り除くために、罪が赦されるには良い行いも積み上げる必要があると教えた。さらには、献金もしなければ赦されないとし、免罪符を発行するようになった。そのことで「つまずきの石」は「つまずかない石」になり、行いによって罪が赦されるのかと、人々は神に感謝した。だが、その代償はあまりにも大きく、このことがきっかけで宗教改革が起き、キリスト教はカトリックとプロテスタントに分裂してしまった。

「つまずかない石」にする試みは他にもまだあるが、あと一つだけ取り上げるとすれば、それは19世紀ごろから盛んになった「史的イエス」の研究であろう。この研究は、歴史上のイエスがキリストであったことを証明することで、自分たちの信仰の基礎を固めようとした。さらに、それが証明できれば多くの人がキリストを受け入れられると考えた。そうやって、「イエス・キリスト」という「つまずきの石」を、「つまずかない石」にしようと試みたのである。

しかしそれは、「人間的な標準」の眼鏡でイエス・キリストを捉えようとする試みであったために、聖書がつづるイエスに関する記事の矛盾をあぶり出し、神の言葉を切り刻むという作業を必要とした。その結果、聖書は神の言葉ではなくなり、矛盾を含む人の言葉へと、その地位を下げられてしまった。信仰は知識に座を奪われてしまったのだ。「史的イエス」の研究から生じた、こうした問題を指摘したのが、20世紀を代表する神学者カール・バルトでありパウル・ティリッヒであった。

このように、神の福音は「つまずきの石」でなければならない。なぜなら神は、人の知恵や行いによってではなく、ただ信じる者を救おうと定められたからである。「信じる者を救おうと定められたのです」(1コリント1:21)。従って、神の福音は擁護する必要も弁解する必要もないというのが結論になる。

弁解する必要はない

私たちの誇りは、『神からの伝言』が「つまずきの石」だということにこそある。なぜなら、そのおかげでイエス・キリストへの信仰を持つことができたからだ。ともすると、私たちは「つまずきの石」を取り除くことが伝道だと勘違いするが、そうではない。「つまずきの石」を伝えることが伝道となる。彼らに合わせ、都合の良い話をすることが伝道ではない。

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(2テモテ4:2~4)

つまり、神の福音については弁解など必要ないのである。私たちは、いまだ見たことも聞いたことも、心に思い浮かんだこともない「良き知らせ」を、ただ伝えていけばよい。それは人々の驚嘆を招き、「つまずきの石」となるが、そうでなければならないのだ。

そもそも神を信じるということは、神に恋をするということであり、恋をするのに理由など要らない。一体恋をするのに、相手のことを好きになるのに、その理由がなければならないのだろうか。この人はこういう人であり、こういう価値があるので、この人を好きになりましたとなるのだろうか。それは恋ではなく、打算である。打算は信仰ではなく、人の欲であり知恵である。ゆえに、以下に書き記す福音は弁解などする必要はない。

この地上で「イエス」と呼ばれた人物は、三位一体の神であり、救い主なる「キリスト」であった。その方は聖霊によって処女マリヤより生まれ、私たちのために苦しみを受け、十字架で殺されたが3日目によみがえられた。誰であれ、その方を信じることで罪が赦され、死んでもよみがえり、神と共に永遠に生きられるようになる。

以上が、神の用意された「つまずきの石」のあらましであり、それは信じるしかない話なのである。キルケゴールは、はっきりこう言う。「キリスト教を弁護するということは、キリスト教を最終的には弁護によって救わなくてはならないような哀れなものにしてしまうことであり、そんなことをしているうちに、いつのまにか躓きとなれ合いになってしまう。だから、キリスト教界の中でキリスト教を弁護しようと最初に思った人は、『事実上』ユダ第二号だと言って間違いない」(引用:キルケゴール著『死に至る病』講談社、157ページ)。では、最後の話をしたい。

人の苦しみを取り除くため

神が用意された福音は「つまずきの石」であった。それは、信じる者を救おうと神が定められたからである。「神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」(1コリント1:21)。信じる者を救う目的は、「神の御前でだれをも誇らせないため」(1コリント1:29)であり、信頼で結ばれた友のような関係を築くためである。「わたしはあなたがたを友と呼びました」(ヨハネ15:15)。だが、本当の理由は、人を苦しめているものを取り除くためであった。そのことを理解するには、人を苦しめているものは何かを知る必要がある。

人を苦しめているのは、実は自分を知るための物差しである。物事を認識するには必ず物差しを必要とするが、自分自身を知るにも物差しが必要であり、その物差しが人を苦しめている。人の姿は誰であれ白鳥なのに、物差しが醜いアヒルの子にしてしまうのだ。この物差しを「人間的な標準」というが、これが神の物差しとは異なる認識をもたらし、人を苦しめている。神の物差しで自分を知るなら、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)となるのに、「人間的な標準」で自分を知るなら「ダメな者」になってしまい、人を苦しめている。

「人間的な標準」の物差しの特徴を一言で言うと、「うわべ」で人の価値を判断するというものである。無論、それは誤りなので、イエスはこう言われた。

うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。(ヨハネ7:24)

この物差しは「うわべ」で人の価値を判断するので、“「行い」イコール「人の価値」”となり、“罪には罰”となる。これが土台となり、そこにさまざまな肉付けがなされ「人間的な標準」という物差しになった。人はそれで自分を知ろうとする。すると、「行い」が完璧な人などいないので、誰もが「ダメな者」になる。醜いアヒルの子と呼ばれる。これが人を苦しめている。

従って、苦しみから人を救い出すには、「人間的な標準」で自分を知ろうとするのをやめさせるしかない。それで神は、「人間的な標準」ではつまずくしかない福音を用意された。行いには関係なく愛され、罪も赦されるという福音を用意されたのだ。それにより、「人間的な標準」でキリストを知ろうとしても、できなくなった。誰であれ「人間的な標準」を捨てない限りキリストには近づけなくなった。つまり、信じるしかないのである。それで聖書は、次のように教えている。

ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(2コリント5:16)

すなわち、信じるというのは、人を苦しめている「人間的な標準」を捨てることなのである。そうすれば、「人間的な標準」に変わって「自己」を知る物差しが「キリスト」になっていく。「キリスト」で自分を知るようになれば(キリストのうちにあるなら)、自分のために途方もないことを神が請け負ってくれることを知るようになる。永遠に、無条件で愛し続けてくださるのだ。そんな自分であったのかと知るようになる。こうして、「人間的な標準」で知っていた古い自分は過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなってしまう。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)

神はこの恵みを人に賜るために、わざわざキリストを「つまずきの石」とされた。人を苦しめている「人間的な標準」を捨てさせるために、信じるしかないようにされたのである。それは、彼に信頼する者は、失望させられることがないからだ。

見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。(ローマ9:33)

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◇

三谷和司

三谷和司

(みたに・かずし)

神木(しぼく)イエス・キリスト教会主任牧師。ノア・ミュージック・ミニストリー代表。1956年生まれ。1980年、関西学院大学神学部卒業。1983年、米国の神学校「Christ For The Nations Institute」卒業。1983年、川崎の実家にて開拓伝道開始。1984年、川崎市に「宮前チャペル」献堂。1985年、ノア・ミュージック・ミニストリー開始。1993年、静岡県に「掛川チャペル」献堂。2004年、横浜市に「青葉チャペル」献堂。著書に『賛美の回復』(1994年、キリスト新聞社)、その他、キリスト新聞、雑誌『恵みの雨』などで連載記事。

新しい時代にあった日本人のための賛美を手掛け、オリジナルの賛美CDを数多く発表している。発表された賛美はすべて著作権法に基づき、SGM(Sharing Gospel Music)に指定されているので、キリスト教教化の目的のためなら誰もが自由に使用できる。

■ 神木イエス・キリスト教会ホームページ

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