ヨハネ書Ⅱ《黙想・観想ノート》真理と愛のうちに・ヨハネ第二書1~13 村瀬俊夫

2015年11月28日19時14分 コラムニスト : 村瀬俊夫 印刷
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ヨハネ第一書の学びを終えたので、この機会に、あまり触れる機会のない第二書と第三書も扱いたいと思います。今回は第二書ですが、わずか13節の短い手紙で、説教で取り上げられることも滅多にありません。

著者は、冒頭に「長老から」とあるように、自分のことを「長老」と呼んでいます。使徒ヨハネであるという説もありますが、確かなことは分からず、おそらく別人と思われます。手紙の受け手の「選ばれた夫人とその子どもたち」は、特定の夫人とその子たちを指すものと思われますが、大方の聖書学者が認めるように、「選ばれた夫人」は教会を、「子どもたち」は教会の信徒たちを指している、と解するのが良いと[筆者も]思います。

短い本書に見られる特徴的な言葉は、真理と愛です。別々に使われることが多いのですが、3節には「真理と愛のうちに」と、両者が一組のように用いられています。1節後半に「私はあなたがたをほんとうに愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々がみな、そうです」とありますが、「真理を知っている人々」とは、教会に属しているキリスト者のことです。その「真理」は、「私たちのうちに宿る真理」であり、「いつまでも私たちとともにある」真理に他なりません(2節)。4節も参照すると、キリスト者とは《真理をうちに宿し、真理のうちを歩んでいる人たちである》と言うことができます。

ところで、真理とは「わたしが真理なのです」(ヨハネ14:6)と言われたイエス・キリストご自身のことですから、私たちが真理を宿しているということは、キリストご自身を私たちが宿しているということになります。そして、真理が私たちと共にあるということは、キリストがいつも私たちと共におられるということなのです。

ピリピ書の中で、使徒パウロは「私にとっては、生きることはキリストです」(1:21)と断言しています。同じパウロは、ガラテヤ書の中では「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(2:20)と告白しています。これらの断言や告白は、すべてのキリスト者の断言であり、告白でもあります。キリストをうちに宿しているキリスト者であるからこそ、このように断言し告白できるのではないでしょうか。

この真理は、一つの命令と深く関わっているのです。5節に「そこで夫人よ。お願いしたいことがあります」と呼び掛けられています。「夫人」が「教会」のことを指しているなら、それは現に私たちが属する教会に対して呼び掛けられている「お願い」でもあるわけです。「それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです」。この「互いに愛し合いなさい」という命令は、真理と深い関わりを持っています。真理のうちを歩むことは、この命令に従って歩むことに他ならないからです。

イエス様は「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい」と言われています(ヨハネ13:34)。その「新しい戒め」とは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というものです。それをヨハネ15:12で、イエス様は「わたしの戒め」と言われています。イエス様の御言葉を記している福音書は四つありますが、それを全部読んでも、イエス様が「わたしがこうしたように、あなたがたもこうしなさい」と言われた御言葉は、前述の「新しい戒め」だけなのです。ですから、この命令に従って歩むことが、真理のうちを歩むことになります。真理のうちを歩むことは、私たちがイエス様の愛を豊かに受け、互いに愛し合うことなのです。

確認したいのですが、私たちが真理を宿していることは、イエス様が私たちのうちにおられることに他なりません。十字架で贖(あがな)いの死を遂げたイエス様が、死を打ち破って復活させられ、私たちにも現れて、私たちと共におられるのです。それこそ、イエス様が私たちの罪を無条件に赦(ゆる)し、私たちを限りなく愛しておられることを示すものではありませんか。「真理と愛」と言われるように、両者には密接な関係があります。真理は、まさに愛なのです。神から出ている愛が、真理であるイエス様から私たちに注がれています。このように、イエス様において、真理と愛が一つとなっているのです。

ヨハネの福音書15章で、イエス様は「わたしにとどまりなさい」(4節)と言われますが、その後で「わたしの愛の中にとどまりなさい」(9節)と言われています。イエス様にとどまることは、イエス様の愛の中にとどまることなのです。私[たち]にとって、イエス様は本当に愛に満ちあふれたお方でいらっしゃいます。私[たち]の罪をことごとく[無条件・無制限に]赦してくださっています。そのイエス様が、私と共に、いや私だけでなく、すべてのキリスト者と共にいてくださるのです。なんと素晴らしい恵みでしょう!

4節に「あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます」と記された文章は、その背後の事情を考察すると、真理のうちを歩んでいない人たちが多くいた、ということを暗示しているように思われます。キリスト者と言われる人たちが、一人も漏れなく真理のうちを歩んでいる、というわけではありません。そうであるからこそ、私たちはキリスト者として、自分が本当に真理であるイエス様をうちに宿しているか、イエス様の愛を豊かにいただいているか、胸に手を当てて吟味する必要があるのです。

信仰と生活は、切り離すことのできない関係にあります。イエス様の愛を豊かに受けることが、私たちの信仰の本領なのです。信仰は、私たちが努力して何かをする、私たちが頑張って何かを得る、という律法の行いではありません。① 神様が[イエス様において]くださる恵みを、ただ感謝して受けること、② 私の罪を無条件に赦し、私を愛して私と共にいたいと言われるイエス様を、喜んでお迎えすること――これこそが信仰なのです。

この信仰が本当に活きているなら、それはおのずから「愛によって働く」信仰となるでしょう。パウロは、ガラテヤ5:6に「愛によって働く信仰だけが大事なのです」と宣言しています。信仰によってイエス様を私の心に迎えるなら、イエス様の愛が私のうちに満ちあふれるようになります。その愛からあふれ出るいのちが、おのずから私を「愛のうちを歩む」ようにさせてくれるのです。

7節以下にも少し触れておきます。「人を惑わす者」と言われ、「反キリスト」と決め付けられているのは、グノーシス異端のことです。この異端の背後には、肉体を蔑視し霊魂のみを重視する《霊肉二元論》を特色とするギリシャ思想がありました。それでイエスが肉体を持つ人として来られた神であることを否定し、イエスの肉体の死も復活も認めないのがグノーシス異端の立場でしたから、「反キリスト」と言われているのです。

10節に、このような異端者が来るときには、「家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません」と言われています。そういう行為は、「敵をも愛せよ」と言われるイエス様の教え(→ルカ6:27)と矛盾しないのでしょうか。私たちは異端の教えを憎みます。しかし、異端者をも異端の教えと同じく憎んでもよいものでしょうか。読者のあなたは、どう思われますか。

(『西東京だより』第85号・2011年10~11月より転載)

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村瀬俊夫

村瀬俊夫(むらせ・としお)

1929年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了、東京神学塾卒業。日本長老教会引退教師。文学修士。著書に、『三位一体の神を信ず』『ヨハネの黙示録講解』など多数。現在、アシュラム運動で活躍。

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