私たちの神様は忘れっぽい神様だろうか?(2) 村岡崇光

2015年6月11日13時42分 執筆者 : 村岡崇光 印刷

私たちが、個人としてであれ、集団としてであれ、例えば、家族、教会、民族、国家として犯した罪、悪事、不正を心底から正直に認め、神に懺悔(ざんげ)し、被害者に赦しを乞い、それを繰り返さないように真剣に努める覚悟であるならば、神は私たちを赦し、その罪故に私たちを罰することはなさいません(1ヨハネ1:9)。しかし、罪が赦されるということと、それが忘れられ、その記録が抹殺されるということは全く別のことです。頭韻を踏んだ「Forgive and forget(赦しなさい、忘れなさい)」というのは、聖書の教えではありません。そう思うことは信仰の甘えです。この赦しを可能ならしめるために、十字架上で死に給うた主の死を陳腐なものにすることです。「きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血」(1ペテロ1:19)をそんなに安価なものにおとしめていいのでしょうか? 「数えてみよ、主の恵み」は私の愛唱賛美歌の一つですが、赦された罪を思い出すたびに、神様の、イエス様の恵みの深さが分かるのです。ここでいう「罪」は、原罪というような抽象的なもののことではなく、あの罪、この罪、自分が犯した具体的な罪のことです。罪の中には、自分がした悪いことだけではなく、しなければいけないと分かっていたのにしなかった善行も入ります。不為の為と言います。

エレミヤは31節で「新しい」契約を云々します。古い契約はもう廃(すた)ったというのでしょうか? キリスト教会は新しいイスラエルであり、新約聖書のみに基づいているのでしょうか? 今夕の聖書箇所の冒頭に「ひとはそれぞれ自分の咎のために死ぬ」とあります。自己責任、というわけです。しかし、モーセの十戒には「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」とありますが、先祖が、戦前の世代が犯した罪は気にしなくてもよくなったのでしょうか? 今から70年前、日本が敗戦を迎えたとき7歳だった私は、慰安婦を陵辱(りょうじょく)しませんでしたし、天皇の兵隊としてひどいことはしませんでした。朝鮮でお巡りさんになって、朝鮮神社にお参りに行かなかったからといって、京城の人たちに縄を掛けて引っ張っていったりはしませんでした。聖書がここで言っているのは、先祖が犯した罪、しかし自分は犯していない罪の故に罰せられることはない。しかし、先祖が犯した罪を無視し、その歴史から学ぼうとせず、先祖が犯したと同じような罪を私が犯したならば神は私を罰せられる、ということです。エレミヤが言っているのは、契約の内容が新しくなった、というのではなく、古い契約は二枚の石の板(タブレット)に刻んであったが、新しい契約は私たちの心に刻まれる、というのです。10年かそこら前までは、日曜日に教会に行くときは、決して軽くない聖書を抱えて行きました。いまは、ポケットからサムスンのタブレットを取り出してスイッチを入れるだけです。

今日の聖書箇所に「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」とありますが、神様は少しぼけられたのでしょうか? 「思い出さない」というのは、イスラエルの民の霊的履歴書はあちこち黒く塗りつぶしてあるということでしょうか? いいえ、神様はイスラエルの民が犯した罪は全部覚えておられます。聖書の神は私たちの霊的履歴書を改訂したり、書き換えたりはされません。私たちもそうしてはなりません。しかし、私たちが本当に心から悔いたならば、いったん赦してくださった以上、その罪のことで私たちをまた責めたり、罰せられたりすることはされない、ということです。

オランダ日本語聖書教会の牧師を2年間務めてくださった韓国人の朴正圭(パク・チョンキュウ)先生から聞いた話をご紹介します。いたずらっ子の小学生の話です。ある日、お父さんが息子に言いました。「今度悪いことしたら、居間の柱に鉄の釘(くぎ)を打ち込むからね」。釘はどんどん増えていき、男の子はすっかりしょげてしまいました。ある日、アイデアがひらめきました。「お父さん、もし僕が本当に良いことしたら、釘を一本抜いてくれる?」 釘は次々と減っていき、最後には一本も残らず、天にも昇る思いでした。でも、柱をよく見てみると、釘の穴がたくさん残っていました。でも、その子は「お父さん、あの穴を埋めてくれない?」とは頼まなかったそうです。

日本の政治家は、「戦争中のことを反省する必要がある」と言います。朝鮮半島の人たちからすれば、反省してもらわなければならないのは、真珠湾攻撃からの4年足らずのことではない、と思われるでしょう。それだけではなく、この「反省」という日本語が曲者(くせもの)です。分かったような、分からないような、典型的な、曖昧(あいまい)な日本語表現です。大学の野球部が全国大会で決勝戦まで行きながら優勝できなかった、「反省会をしよう」というようなときにも使います。倫理的次元が欠けていることもあります。そういう表現でごまかすことは許されません。

過去の歴史を学ぶだけでなく、歴史から学ばなければなりません。「前事不忘 後事之師(前の事を忘れないで、後の事の師とする)」です。最近、ナチス敗戦70周年にあたって、ドイツのメルケル首相は「過去の歴史に終止符を打つことは許されない」と発言しました。私たちの神はアルファ(最初)でありオメガ(最後)です。人類の歴史を始められたのも、締めくくられるのも神以外の誰でもありません。

私は、信仰と政治をごっちゃまぜにしているのではありません。民族、肌の色、年齢、男女の違いに関係なく、全ての人間は神の姿に似せられて創造されました。一人一人が神の尊厳を備えているのです。そういう人を不当に傷つけ、その人の人間としての尊厳を損なうことは、その創造者である神ご自身に対する反逆、つまり罪に他なりません。昨年ソウルを短期訪問したとき、永楽教会の日本語礼拝部で少し話をさせてもらいました。出席者はほとんど韓国人で、日本語、日本文化に深い関心があり、中には、いつか日本に宣教師として渡ることを考えておられる方たちもおられる、ということでした。日本が植民地支配の時代に南北朝鮮で行ったこと、そしていまだにその過去に向き合おうとしない日本のことを思うと、お礼の言葉もないと申し上げました。しかし、宣教師として渡日されたら、被害者としてこの過去に向き合っていただきたい、その話を始めたら皆さんの主催される会合に来る日本人の数ががた減りし、本国から帰国命令が来るかもしれない、それでも神の正義と神の前での和解という問題をよけて通ったのでは、どんな宣教ができるのでしょう、と申し上げました。

ヨルダン川で洗礼を授けてもらうために来た人たちに向かって、洗礼者ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3:8)と言っています。自分の過去の非を、罪を悔い、神様に、また被害者に向かって「すみませんでした。お詫び致します」と口で告白することは絶対に必要です。でも、それは第一歩です。パウロは言います。「人がキリストにあるならば、これは新しい被造物である。古いものは過ぎ去った、見よ、すでに新しくなっている」(2コリント5:17)。また、別なところではこうも言っています。「それゆえ、兄弟たちよ、あなたがたの肉体を、生きた、聖別された、神に喜ばれる生贄(いけにえ)として、あなた方の霊的礼拝として神に供えるように、私は神の哀れみゆえにあなたがたに強く促す。そして、この世に範を求めることはやめなさい。むしろ頭を切り替えて自分を変え、何が神の欲せられるところであるか、善にして、喜ばれ、完全なことであるかの判別がつくようにしなさい」(ローマ12:1〜2)。パウロがここで言っている「あなたがたの肉体を、生きた、聖別された、神に喜ばれる生贄として」神様にささげなさい、というのは殉教を勧めているのではありません。自分の罪に気付いて、頭を切り替えたのなら、新しい生き方をしなさい、日々の生活を神様にささげなさい、と言っているのです。口でのお詫びからさらに一歩進んで、「悔い」、かつ「改めなさい」というわけです。

私も、祖国の過去の歩みの不義に気付いたということを、アジアの人たちやオランダ人に公に認め、被害者たちが今なお背負っている苦しみに心を寄せようとするだけではなく、私のそういう内心の変化を、姿勢を、何か具体的な行動として表現したいと思って、過去12年間、妻に伴われて、毎年最低5週間(1年の十分の一)、アジアの被害国で無償の授業をさせてもらってきました。過去の罪はきちんと処理されなければならない、と私と同じように考えていてくださるアジアの人たちの理解の上での共同作業である、と私は考えています。これにはお金も時間もかかります。でも、お金も時間も神様からの頂き物です。天国にある私の口座に預金しているつもりです。長くなりました。ご静聴、誠にありがとうございました。

2015年5月27日 韓国・セエデン教会

■ 私たちの神様は忘れっぽい神様だろうか?:(1)(2)

村岡崇光(むらおか・たかみつ)

1938年広島市生まれ。70年ヘブライ大学(イスラエル)で博士号取得。マンチェスター大学(英国、70〜80年)、メルボルン大学(オーストラリア、80〜91年)、ライデン大学(オランダ、91〜2003年)で教鞭をとった世界的なセム語学者。現在、ライデン大学名誉教授。1975年都留・スミス賞受賞。2001、02年フンボルト財団研究賞受賞、14年聖書事業功労者賞受賞、エルサレムのヘブライ語アカデミー名誉会員。聖書ヘブライ語、現代ヘブライ語、シリア語、アラム語、エチオピア語、ウガリト語などに関する著書論文多数(多くが英語)。

※ この文章は、日韓教会協議会主催の「謝罪と和解と交流の旅」(5月25〜28日)で、日本からの一行が韓国ソウル郊外にあるセエデン教会を訪れた際、村岡氏が説教で語った内容です。

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