聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時(その3)

2014年10月11日17時11分 執筆者 : 宮村武夫 印刷

桐生悠々(1873〜1941)は、長年交流を重ねたM夫人が自分の祖父として紹介してくれた最初の出会いや、曽祖父・宮村撃との関係で、以前から親しみを覚える存在でした。しかし今、特に2つの視点を軸に、改めて悠々に学びたいと思いを新たにしています。

1つの軸は、悠々の全生涯で繰り返される挫折と、その中での新たな前進です。1892年(明治25年)、19歳で小説家を志して旧制第四高等学校を中退し、上京したにもかかわらず、目的を達せず帰郷。この挫折を乗り越えて、1895年(同28年)には、東京法科大学政治学科(現東京大学法学部)に入学するのです。この一事は、悠々の全生涯の予表です。

幾つも職業を経験した後、1910年(同43年)信濃毎日新聞主筆に就任。反響を呼ぶ社説を執筆し活躍しますが、1914年(同47年)には社長と対立し退社します。

その後、衆議院議員選挙落選や自ら発行した日刊紙の廃刊などの挫折の後に、悠々は、1928年(昭和3年)に信濃毎日新聞主筆として復帰。再び健筆を振るいます。しかし1933年(同8年)、社説「関東防空大演習を嗤(わら)う」が契機となった不買運動の展開のため退社を強いられるのです。

第2の視点は、亡くなるまで生涯の最後8年間続けた個人雑誌「他山の石」です。信濃毎日新聞主筆の2度目の退社、この決定的な挫折を越えて、「なお」なのです。悠々の志は、「他山の石」廃刊の挨拶に明示されています。

「(8年間)超民族的超国家的に全人類の康福を祈願して孤軍奮闘又悪戦苦闘を重ねつゝ今日に到候が・・・やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故、小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつゝある地球の表面より消え失せることを歓迎・・・ただ小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極」

要は、志です。

(文・宮村武夫)

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