菅野直基
1971年東京都生まれ。新宿福興教会牧師。子ども公園伝道、路傍伝道、ホームレス救済伝道、買売春レスキュー・ミッションなどの地域に根ざした宣教活動や、海外や国内での巡回伝道、各種聖会での賛美リードや奏楽、日本の津々浦々での冠婚葬祭の司式など、幅広く奉仕している。日本民族総福音化運動協議会理事。
1971年東京都生まれ。新宿福興教会牧師。子ども公園伝道、路傍伝道、ホームレス救済伝道、買売春レスキュー・ミッションなどの地域に根ざした宣教活動や、海外や国内での巡回伝道、各種聖会での賛美リードや奏楽、日本の津々浦々での冠婚葬祭の司式など、幅広く奉仕している。日本民族総福音化運動協議会理事。
人は誰でも、苦しいことをできるだけ避けて、楽しく過ごしたいものではないでしょうか。しかし、現実にはそうはいきません。水戸黄門の主題歌に「人生楽ありゃ苦もあるさ」で始まる歌がありますが、人生には、楽もあるけれど苦もあります。
聖書には「はからずも」という言葉が10回程度使われています。聖書は何十回も読んでいるので、何百回も「はからずも」という言葉を読んでいることになりますが、そのほとんどが他人事だったのではないかと思います。
牧師になったばかりの頃は、日曜日の礼拝の説教準備だけで頭がいっぱいでした。それに加えて、早天祈祷会や水曜礼拝、金曜賛美集会などの説教もあったので、いつも追うものがいないのに追われているような状態でした。
人は、誰かから認められ、愛され、喜ばれたいと願いながら生きているのではないでしょうか。それが本能だからです。この聖句で書かれている「主人」とは、神様のことです。
うまくいかないことをすべて人のせいにする人が多い。だから、うまくいかないことを自分のせいだと考える人がいたら、「えっ!?」と思うのではないでしょうか。しかし表向きは「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのもすべて私のせい」と言っていても…
人を頑張らせる動機の一つが承認欲求です。SNSで発信し続けるモチベーションの一つは、承認欲求ではないでしょうか。「いいね!」「素晴らしいですね!」と言ってもらいたいのです。
日本人は自己肯定感の低い人が多いといわれます。クリスチャンになり、米国留学をしたことで、その問題と長いこと向き合ってきました。神様が「愛している」と言ってくださるのに、どうして素直にそう思えないのだろう、と。
「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる」(2テモテ2:12)。上記の聖句が語る「耐え忍んでいるなら」というのは、イエス様のために味わう苦難のことです。
聖書は私たちの人生脚本について「わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と語ります。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ」
神の愛は、裁きのときに一番強く輝きます。夜空に星が輝くようにです。神の愛は、砂漠の中のオアシスのように、かゆいところに手が届くようにありがたいものです。だから福音(祝福の音信)であり、GOOD NEWSなのです。
聖書には「肉にある者は神を喜ばせることができません」(ローマ8:8)と書かれています。神が私たちを喜ばせることはできても、私たちが神を喜ばせることはできるのでしょうか。
ダビデは「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう」(詩篇139篇7節)と語りました。どこにいたとしても、どんな状況にあったとしても、主の御霊は常に共におられます。
問題が山のように大きくそびえ立って見えることがあります。それは、目の前の問題を実際よりも大きなものと過大視しているのです。「祈りによって山を動かすことができる」と神様は約束されました。
「信じるだけで救われる」と聞くと、間違って理解する人がいます。間違った言葉なのでしょうか? いや、正しい言葉です。しかし「信じるだけで救われる」と聞いて、必ず誰かから出てくる反応として「信じる以外に、何もしなくていい!」というものがあります。
四方八方が塞がれる試練に会っておられる方がいます。そんな時どうしたらよいでしょうか? 全てが塞がれていても、祈りを通して天の方向を突破して、神に祈り求めることができます。
聖書には「主は怒ること遅く」と書かれています。神様が気短で怒りっぽく、すみやかに裁きを下されるとしたら、誰一人滅ぼされない人はいないはずです。神は、一点の罪や汚れがないだけではなく、罪が何であるかさえ分からないお方です。
イエス様の祈りは、「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします」(ヨハネ17:15)でした。私たちクリスチャンは、神が定められた時になったら、イエス様のおられる天に帰ります。
コロサイ3章は「こういうわけで」という言葉で始まっています。「こういうわけで」とは、2章20節には「あなたがたが、キリストとともに死んで」キリストと共によみがえって新しく生まれ変わった者だから、というのです。
キリストは、公生涯において「わたしの時はまだ来ていません」と度々語られました。この「わたしの時」の「時」は、ギリシャ語の「カイロス」です。「カイロス」は、「その時、歴史は動いた」というような「ティッピングポイント」を意味する言葉で…
あるユダヤ教の教師の家庭で、息子が突然「キリスト教に改宗したい」と言い出した。両親はショックのあまり言葉を失い、夜一心不乱に祈り始めた。すると、急に天から神が現れた。そこで両親はこう叫んだ。