耳のある者は聞きなさい。この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに…言うのです。「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。」ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は「あれは悪霊につかれているのだ」と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と言います。でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。(マタイの福音書11章15~19節)
今回の大阪万博の報道でも分かるように、最近のメディアは恣意(しい)的で、公平性を保っていないと思わされます。気勢を削ぐ冷たい風潮があるのは残念です。イエス様の時代も、救い主のいのちの言葉を聞いても冷ややかで、無関心な人が多くいました。
ここでのイエス様の「笛吹けど踊らず」という言葉は、人々の無感動、無関心を表しています。洗礼者ヨハネが食べもせず飲みもせずに荒野にいれば変人扱いし、人の子(イエス様)が罪人と飲んだり食べたりすると、罪人の仲間だとあざける。何をしても批判するのです。私たちも同じように、神様ご自身が恵みの業を行っているにもかかわらず、無関心で冷めているのは残念なことです。こうなってしまうのは、4つの理由が考えられます。
1. 人々の心の中にあるプライド
人々の心には、大工の子の言うことをどうして聞く必要があるのか、というプライドがあったのです。パリサイ人や律法学者は、自分たちの方が聖書を学んでいると思っており、自分たちのプライドを保つために、イエス様を罠にはめ、除こうとしました。このプライドが、神の言葉を聞くことを妨げたのでした。これは、今も私たちの心に忍び寄る悪魔からの罠です。
2. 他人事としか受け止められない
彼らは、よもや自分たちが悔い改めなければならないとは思いつかなかったのです。それは罪人や遊女、収税人のことだと、自分のこととして受け止められなかったのです。しょせん他人事でした。私たちにも、常にダメなのは周りの人で、自分はいい人だと、人ばかり攻める情けないところがあります。
3. 心の中の怠惰がある
神様から真理を示されて、しなければならないことは知っているのに、行動に起こさない怠惰な心です。よきサマリヤ人の例えで言われているように、しなければならない理屈は分かるが、行動を起こさないのです。口先だけ、理屈だけで、自分では何もしない怠けぐせがあったのです。私たちも、分かっていても行動しようとしない悪い習慣があります。
4. 人の心はいつの時代も冷めやすい
そして何と言っても、冷めた心がそこにあると思います。私たちも、物事に対して冷めた冷たい態度しか取ることができない、いのちの働かない冷めた心に落ち込んでいないか気を付けたいのです。
クリスチャンは、霊の目を開き、神の御業を見逃さず、主の招きの声を自分のこととして聞き逃さないようにしたいのです。そして、自ら動き、主の働きに参加する者でありたいのです。
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