福音の回復(57)復活を信じられる信仰 三谷和司

2018年3月31日21時17分 コラムニスト : 三谷和司 印刷
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福音の回復(57)復活を信じられる信仰 三谷和司

神などいない?

科学者が、この世界に神などいないと言うとき、それは正しい。なぜなら、この世界は滅び行く性質を帯びているので、滅びることのない神には住めないからだ。この世界は有限であって、それに対して神は永遠なので、有限の中に永遠は入り込めないのである。神の姿は、死が存在しない「永遠の世界」でしか見ることができない。そのため、有限の世界を探求する科学者が、そこに神などいないと言うのは正しい。

福音の回復(57)復活を信じられる信仰 三谷和司

ただし、神がおられる「永遠の世界」とは、時間が果てしなく続く世界ではない。永遠とは、時間が無限にあるということではなく、時間がないということを意味する。そこには時間がないので、始まりも終わりもない。終わりがないから死も存在しない。要するに、時間が言うところの、過去も現在も未来もないのである。だから「永遠の世界」におられるイエス・キリストを過去の人が見ても、現在の人が見ても、未来の人が見ても、それはまったく変わることがなくいつも同じになる。

「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(ヘブル13:8)

逆に神の前では、人が覚える時間がないので、人が覚える1日は千年のようでもあり、千年は1日のようでもあるとなり、1日も千年も同じになる。

「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」(Ⅱペテロ3:8)

これが永遠であり、神がおられる「永遠の世界」は、まさしく「時間」に支配されたこの「有限の世界」とはまったく次元が異なる。ゆえに「永遠の世界」が「有限の世界」に入り込むことなどできないのである。「永遠の世界」は「有限の世界」の外でしか存在し得ない。そうである以上、この「有限の世界」を探求する科学者が、この世界に神などいないと言うのはまことに正しい。

だが同時に、科学者のこうした発言は、神がいるということを証ししている。というのも、神がいないと言うことは、神を知っているからこそ言える事柄となるからだ。子どもは親を知るからこそ、ここに親がいるかいないかを言えるのと同じである。親を知らなければ、いるともいないとも言えない。同様に、科学者が必死になって神を否定できるのは、神の存在を無意識に知っているからであり、神に捕らえられているからこそである。ならば、どうして人は神に捕らえられているのだろう。

人は神に捕らえられている

人が神に捕らえられているわけは、人が神に似せて造られたからにほかならない。神に属する者として造られたから、神に捕らえられている。その証拠に、神だけが持つ「永遠」を人は知っている。この世界には存在し得ない「永遠」を人は知っていて、それに憧れる。そのことが、永遠なる神に捕らえられていることを証ししている。人は永遠なる神に捕らえられているがゆえに、滅び行くことを恐れ、何としても長く生きようとするのである。肉体の死をことのほか恐れ、どうにもならない死の壁を少しでも乗り越えようともがく。

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このように、人は神に捕らえられているので、神にだけ適用できる「永遠」という概念を知っている。「神」という概念も知っている。知っているから、ある人たちは「神」がいると言って、永遠である神を慕い求め、ある人たちは「神」などいないと言って、永遠である神を慕い求めている。

こうした目に見えない神を求める運動を「信仰」という。この信仰は目に見えない神を求めさせ、信じさせてくれる運動だが、その信仰のおかげで人は見えない将来をも信じることができる。友達と待ち合わせの約束をしたり、仕事で将来の契約をしたりできる。親は子どもの将来を信じることもできる。人が日常的にしている「信じる」という行為は、まさしく人が目に見えない神に捕らえられているからこそ可能なのである。

ただし、求める先の神が「イエス・キリスト」であることは、神に啓示されなければ知りようがない。神が「イエス・キリスト」を証ししてくれなければ、信じようがない。神の助けがなければ、信仰は誤ったものを神として求めてしまう。そうであっても「信仰」は神を知ることを目指す。ならば「科学」は何を目指すのだろう。両者の関係はどうなっているのだろう。

信仰と科学

「科学」は有限の世界を知ることを目指す。それは「信仰」が目指す世界とはまったく異なる次元の世界なので「信仰」と「科学」がけんかすることはない。もし「信仰」が「科学」とけんかするのであれば、それは「信仰」を有限の世界に引き下げてしまった結果であり「信仰」の姿ではない。「信仰」は、何を神として信じるかをめぐって「信仰」とけんかするのである。「科学」も、この世界をどう見るかという「科学」とだけけんかをする。

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ならば「信仰」と「科学」は、何ら接点がないのだろうか。いや、ある。というのも、科学が探求する「有限の世界」は、信仰が探求する「永遠の世界」に支えられているからだ。永遠という、神の御手の中に包まれている。私たちは神の中に生き、動き、存在している。

「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」(使徒17:28)

そのため、この世界を解き明かそうとする「科学」も、神を知る「信仰」の中に包まれている。平易な言い方をするなら「信仰」が「科学」を支え補う立場にある。両者にある接点は、それ以上でも以下でもない。では「信仰」が「科学」を補うとは、具体的にはどういうことなのだろう。

信仰が科学を補う

信仰は、科学を補う立場にある。そのことが明確になった科学の発見があった。それは「ビッグバンの特異点」の発見であった。これが、信仰と科学の立場の棲み分けを明確にし、信仰は科学を補う立場にあることを明らかにした。その「ビッグバンの特異点」とは、次のような出来事をいう。

科学はこの世界を解き明かそうとし、20世紀になると、ついに宇宙が膨張していることを突き止めた。ということは、その昔の宇宙は今よりも小さかったことになる。時間を戻せば戻すだけ宇宙空間は小さくなっていき、最後は消えてしまうことになる。これはつまり、何もなかったところに、ある時、突然、宇宙が誕生したということを意味する。このある時を「ビッグバンの特異点」という。科学は、宇宙の始まりとなる「ビッグバンの特異点」にたどり着いてしまったのである。

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この「ビッグバンの特異点」が正しければ、何もなかったところから突然、この宇宙が始まったことになってしまう。これだと、どこからこの宇宙の質量が来たのか、その「始まり」を科学では何も解明できなかったと、白旗を振るしかない。ここに、科学の限界が露呈されてしまった。

そこで科学は、宇宙の「始まり」を説明しようと、さまざまな宇宙論の試みを始めた。例えば、ブラックホールに吸い込まれた質量が、吸い込まれた先でビッグバンの特異点となり、新たな宇宙の「始まり」になったとした。面白い試みではあるが、これでもブラックホールはどうして誕生したかは説明できない。吸い込まれた質量もどこから来たのか、その「始まり」は説明できていない。

こうして科学は、この世界を解き明かそうとした結果「始まり」という解けない壁に突き当たってしまった。だが、このことが、科学と信仰の棲み分けを明確にしてくれた。なぜなら、信仰でしか、この宇宙の「始まり」は解けないからだ。その「始まり」は、信仰だけが知り得る「神」にしか担えない。信仰だけが、この世界を神が造られたと信じさせてくれて、科学が解けない「始まり」を補ってくれる。「ビッグバンの特異点」の発見が、そうした棲み分けをしてくれたのである。

このように、信仰は科学とけんかするのではなく、科学の知り得ないところを補う立場にある。このことは、信仰は科学を土台とするのではなく、科学が信仰を土台とするということを意味する。ならば信仰は、何に基礎を置くのだろう。

聖書の言葉に基礎を置く

科学はその昔、地球は平らだと言った。しかし、地球は丸かった。科学はその昔、地球は動いていないと言った。しかし、地球は動いていた。科学はその昔、宇宙は永遠の昔から同じように存在していたと言った。しかし、宇宙にはビッグバンという「始まり」があった。科学は今日、人は猿から進化して生まれたと言う。しかし、近年の「インテリジェント・デザイン」などの科学の台頭によって、従来の自然科学的な進化論は揺らぎ始めている。

このように、科学で言うところの話は常に変化してきた。これからも変化し続ける。だが、聖書の言葉は何ら変化しなかった。むしろ、時間を重ねるごとに、これは真実であるという合唱が大きくなった。信仰は、まさしくこの聖書の言葉にこそ基礎を置く。とこしえに変わることのない「主のことば」に基づく。

「『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです」(Ⅰペテロ1:24、25)

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その聖書には、ペテロが最初にイエスのことを「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ16:16)と言ったことが書かれている。イエスのメシア性に対する弟子たちの証しも、数多く書かれている。そこにこそ、私たちは信仰の基礎を置く。

従って信仰は、史的「イエス」の研究によって基礎づけられることも、科学的根拠に基づく証言も必要とはしない。そうであったからこそ、進化論を盾に多くの科学者たちが神などいないと攻撃を仕掛けてきても、イエス・キリストを信じる人たちは増え広がった。いくら学校で進化論が教えられても、神がこの世界を創造したと信じる人たちは増え広がった。

このように、私たちの信仰は、とこしえに変わることのない「主のことば」に基づく。ゆえに、科学的にはあり得ないとされる、イエス・キリストの復活をも信じられる。ならば、どうして私たちは「主のことば」を信じられるのだろう。聖書が証しする「イエス・キリスト」を見たこともないのに、どうしてその方を信じられるのだろうか。ましてや、イエス・キリストの復活をも信じられるのは、一体どうしてなのだろう。

信仰を支える方

私たちの信仰は、実は聖霊なる神が支えてくださっている。聖霊が私たちのうちに働き、助けてくれているから、私たちは「主のことば」が信じられる。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14:26)

私たちが見たこともない「イエス・キリスト」を信じられるのは、聖霊なる真理の御霊が「イエス・キリスト」を証ししてくださるからなのである。

「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」(ヨハネ15:26)

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そして、神が私たちを助けられるのは、人が神に似せて造られ、神に属するからにほかならない。人は神を知っているから神の呼びかけに「応答」することができ、神も人を助けることができる。すなわち、私たちの魂は神の呼びかけに「応答」したので、聖霊なる神の助けが得られるようになり、聖書の言葉を信じられるようになった。聖霊の助けによって「イエスは主です」と告白できるようになったのである。人の持つ信仰だけでは、そのことを知り得なかったし、信じることもできなかった。

「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:3)

これは何と素晴らしいことだろう。私たちは聖霊なる神の助けによって「イエスは主です」と告白でき、イエスの復活までも信じられるのだから。私たちの信仰が科学に支えられているのではなく、神に支えられているからこそ復活を信じられる。これは何と素晴らしいことだろうか。となれば、イエスの復活までもが信じられるように神が助けてくださるのは、一体なぜなのだろう。そこには、どのような神の思いがあるのだろうか。

復活を信じられる信仰

私たちは神の助けによって、科学の世界ではあり得ないといわれる復活が信じられる。死んだイエスが、3日目によみがえられたことを信じられる。しかし、科学に立つなら、それは絶対にあり得ない事柄となって、死人がよみがえるなど信じられないとなる。科学に立つ限り、死人の復活を信じることは最も困難が伴う事柄になる。

このことは、この世で最も困難とされる事柄を信じられる「信仰」を、私たちは神から賜ったということを意味する。そうであれば、人生で出会う困難な出来事に対しても、解決できると信じることができないだろうか。いや、できる。例えば、最高に難しい数学の問題を簡単に解ける能力を賜ったとしよう。そんな能力を持っていれば、どんな数学の問題に出会っても簡単に解くことができるのと同じである。

つまり、信じることが最も困難とされる復活を信じられるのであれば、どんな人生の問題に対しても、それは解決すると信じることができてしまうということだ。イエスを復活させた神を信じられるのであれば、私の問題も神なら解決できると信じることが問題なくできる。

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冷静に考えてみてほしい。私たちはさまざまな困難に遭遇するが、その困難から脱出できることを信じるのと、死人が死から脱出できることを信じるのとでは、どちらが難しいかを。言うまでもなく、科学が完全否定する死人の復活を信じることのほうがはるかに難しい。その難しいほうを、私たちは神の助けによって信じられるのである。

ここから、神が私たちを助け、イエスの復活までもが信じられるようにしてくださることの思いが見えてくる。それは、困難に遭遇しても落胆しないようにさせるためである。困難に遭遇しても「希望」が持てるようにするために復活を信じさせてくださる。このように、私たちが賜った「信仰」は、どんな困難にも立ち向かえる「信仰」であって、これを使えばどんな困難に対しても脱出できる「希望」を持つことができてしまう。これは何と素晴らしいことだろう。

そこで、最後に問いたい。こんなに素晴らしい「信仰」を神から賜っていたことを、あなたは知っていただろうか。知らないで、困難に遭うたびに落胆してきたのではないだろうか。賜った信仰を使わずに「もうダメだ!」と諦めてきたのではないだろうか。

しかし、私たちは今一度、イエス・キリストの復活を祝うに当たり、賜った素晴らしい「信仰」を思い起こそうではないか。「もうダメだ!」と諦めるのではなく、イエス・キリストの復活が信じられることの意味を、今一度、考えてみよう。そうすれば、苦難のゆえに落胆することのないようにという、神からの励ましが聞こえてくる。その励ましへの感謝こそ、イースターなのではないだろうか。

「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします」(エペソ3:12、13)

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三谷和司

三谷和司(みたに・かずし)

神木(しぼく)イエス・キリスト教会主任牧師。ノア・ミュージック・ミニストリー代表。1956年生まれ。1980年、関西学院大学神学部卒業。1983年、米国の神学校「Christ For The Nations Institute」卒業。1983年、川崎の実家にて開拓伝道開始。1984年、川崎市に「宮前チャペル」献堂。1985年、ノア・ミュージック・ミニストリー開始。1993年、静岡県に「掛川チャペル」献堂。2004年、横浜市に「青葉チャペル」献堂。著書に『賛美の回復』(1994年、キリスト新聞社)、その他、キリスト新聞、雑誌『恵みの雨』などで連載記事。

新しい時代にあった日本人のための賛美を手掛け、オリジナルの賛美CDを数多く発表している。発表された賛美はすべて著作権法に基づき、SGM(Sharing Gospel Music)に指定されているので、キリスト教教化の目的のためなら誰もが自由に使用できる。

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