しもべにして王
 ルカの福音書22章24~30節
 
 [1]序
 
 みことばに導かれながら先を見通すと共に、みことばに足元を照らされながら主なる神に従う歩みを一歩一歩継続して行きます。定例集会でのみことばの学び、各自の日々のみことばの味わいを大切にしながら。
 
 [2]「あなたがたは、それではいけません」(24~27節)
 
 (1)弟子たちの現実(24、25節)
 
 ①23節までに描かれている大切な場面で、「また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった」(24節)と指摘されているすがたが、弟子たちの現状です。参照39~46節、ゲッセマネの場面での弟子たちの姿。弟子たちなりの理由として、主イエスと一緒にいるのが最後とすれば、自分たちの間での順位をはっきりしたいと願ったなど。
 
 ②周囲の物差し、価値観の影響
 「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています」(25節)。弟子たちは、このような支配体系とその背後にあるものの考え方や価値観の中で生きていました。24節に見る弟子の現実は、周囲からの影響と見て良いでしょう。
 
 私たちも周囲の人々に支えられて生きています。沖縄のキリスト者・教会として、沖縄の歴史、文化や生き方から多くの良きものを神の恵みとして受け歩みを続けています。しかし同時に、周囲のものの考え方や価値観が私たちを聖書の教えとは違う方向へと強く影響している事実を認める必要があります。
 
 (2)弟子たちのあるべき姿
 ①「だが、あなたがたは、それではいけません」(26節)
 否定の戦い。皆がそうだからと言って、そのようにはしない生き方。しかし否定の戦いは、何もしないことを意味しません。消極的な生き方ではなく、新しい積極的な生き方をなす戦いです。
 
 ②実際的な目標や指針
 「一番偉い人は一番年の若い者のように」、「治める人は仕える人のように」。
 
 (3)主イエスご自身の実例
 ①27節前半、誰でもわかる事実をあげ、その上で「しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています」。直接的には、22章14節以下の食卓の場面。しかし、主イエスご自身の在り方そのものについて、マルコ10章45節に明示。参考ヨハネ13章1~20節。真の偉大さは、仕える姿を通して示されて行きます。
 
 ②教会の役員が聖餐式の分餐の奉仕をする役割のうちに、「給仕する者」にならう道を進む姿を見ます。明治時代、ある群れでは、教会の指導者のことを「おしもべさん」と呼んでいたとのことです。しかし誰の「おしもべさん」かが大切な点です。
 
 [3]「けれども、あなたがたこそ」(28~30節)
 
 (1)24節に見るような弟子の現実の姿にもかかわらず、なお弟子たちに対する主イエスの理解と期待。「けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです」(新共同訳「絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」)。
 
 27節までと28節への移行は、理解困難と指摘されています。しかし31節以下の主イエスのペテロに対する態度、39節以下に見る弟子たちへの勧めは、この移行をどのように受け止めるべきかを教えてくれています。
 
 主イエスの弟子の道とは、「イエスが静かな自己放棄のうちにその服従を完成された。そのすべてによって、弟子たちがイエスから引き離されることはなかった。・・・十字架の苦しみが待っているだけとなり、キリストの力が現れずにいる時、彼らは絶え抜いた」(A・シュラッター)。
 
 (2)主イエスの驚くべき約束(29と30節)
 
 [4]結び
 
 (1)生まれ育った環境・文化の影響
 
 弟子たちへの恵みと危険。そしてキリスト者・教会への恵みと危険。
 
 ①私たちの生まれ育った環境の良いもの、神からの恵みとして忘れないように。正しい意味での誇りを持つ必要。
 
 ②しかし細心の注意を払わなければならないのは、「だが、あなたがたは、それではいけません」と明らかにされている事実です。私たちの周囲であたりまえであっても、私たちが従ってならない道があります。しかしそれらは、私たち自身を深く影響していて気付くのがとても困難です。物差しや価値観そのものが問題になるのです。福音と文化の関係、つまり親や兄弟との関係です。「だが、あなたがたは、それではいけません」とは、より積極的に生かされ、環境を変えて行く、新しい文化を形成する偉大な「イエス」のため、必要な「否、ノー」の道への招き。
 
 (2)主イエスご自身に目を注ぎ続け、主イエスご自身に従い、与えられた場・役割に踏みとどまる歩みを続ける生涯
 
 ①主イエスご自身、王にしてしもべ・しもべにして王。生きた模範。
 
 ②キリスト者・教会。主イエスご自身に従い生きる道を、ルターは「キリスト者の自由」として、その二面性を指し示しています。
 
 ◇キリスト者は、あらゆるものの中で最も自由な主であって、何ものにも隷属していない。
 ◇キリスト者は、あらゆるもののの中で最も義務を負うている僕であって、すべてのものに隷属している(参照Ⅰコリント9章19節)。
 
 しもべにして王の道は、ピリピ人への手紙2章6~11節に徹底的に、そして美しく描かれています。1~5節の勧めと切り離されずに。
 
 私たちの社会のあらゆる分野に、サーバント・リーダー(しもべとしての指導者)を送り出していくこと、これが教会に与えられている貴い使命の一つです。教会が社会に負っている使命として、主イエスから委ねられている。
 
 六十年にわたりベットでの生活を送り、美しく召天されていった小沢容子姉妹(青梅キリスト教会)は、このように歌っておられます。
 
 下働きの人
 ろうかのおそうじ、便所そうじ、おしめの取り替え
 私は、そういう人を尊敬する
 そういう人がいなかったならば
 ドクターもろうかを歩けず
 ナースもろうかを歩けず
 面会人もろうか歩けない
 そういう方々を尊敬する
 宮村武夫(みやむら・たけお)
 
 1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
 
 主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。
 
 
 
 







 
                         
                         
                         
                         
                         
                         
                         
                         
                         
                         
                         
                         
                         
                         
                         
                         
                         
                         
                         
                         
                        








