聖書は「神の言葉」である。私たちはそう信じてページを開く。しかし、そこで私たちが直面するのは、一見すると矛盾に満ちた言葉の群れである。「救いは行いによるのではない」と書かれ、その一方で「行いがなければ信仰は死んだもの」とも書かれている。「神は愛の方」と読んだ目で、時には「神は裁く方」という言葉を目にする。誠実な読者ほど、この矛盾の前で立ち止まってしまう。
そこで、聖書の整合性を求めて神学の書物を読みあさるが、そこにはさらなる複雑な論争の歴史──カルバンとアルミニウスの対立や、終末論の迷路──が広がっている。なぜ、「神の言葉」がこれほどまで複雑に見えるのか。なぜ、神学はいつまでも論争を終わらせることができないのだろうか。本コラム「神学の限界と突破口」は、その問いに対する一つの「答え」である。
結論から言えば、この問題は聖書の側にあるのではない。私たちが無自覚にかけている「人間的な標準」という眼鏡にある。私たちは自覚のないまま、「原因があれば結果がある」「罪があれば罰がある」といった人間の理屈(標準)で「神の言葉」を読もうとする。この眼鏡をかけている限り、聖書の言葉は、言葉の「表層」でぶつかり合い、矛盾し続ける。
しかし、「人間的な標準」の眼鏡を外し、神と人との間にある本来の仕組み──本コラムが「霊的構造」と呼ぶもの──から読み直すとき、景色は一変する。とはいえ、本コラムは新しい教義を打ち立てようとするものではない。ただ、長い歴史の中で積もったちりを払い、聖書が本来語っていた「神の福音」の輝きを取り戻そうとする試みである。
聖書の引用は新改訳聖書第三版を使用する。そうでない場合は、その都度聖書訳名を表記する。ただし、聖書箇所の表記は、新改訳聖書第三版の表記を基に本コラム独自の「略語」を用いる。
序論
どのような建物にも、その外観(表層)を支えている見えない「構造」がある。柱や壁、土台といった「構造」がなければ建物は成り立たない。聖書の言葉も同じである。文字として見える「表層」の下には、必ずそれを支えている「霊的構造」がある。
聖書は神が人に語りかけている言葉である。従って、ここでいう「霊的構造」とは、神と人との関係を成り立たせている根本的な仕組み、すなわち神の言葉を受け取る「人の状態」を指す。この「霊的構造」が分からないと、神が言われた言葉の意味も正確には把握できない。どういうことなのか、分かりやすい例で説明する。
目の前に、「んー、っぱ!」と書かれた一枚のメモがあったとしよう。これだけでは、何の意味なのかさっぱり分からない。ただ意味不明な言葉にしか見えない。ところが、これは言葉を持たない赤ちゃんに向けて、親が一生懸命語りかけた場面のメモだと知ったらどうだろう。
「んー、っぱ!」は「こっちを見て」という呼びかけの言葉であって、決しておかしな言葉ではないことに気付くはずである。このように、言葉を背後で支えている状況が見えれば、意味は明確になる。
同様に、聖書もまた神が人に語りかけている言葉である以上、その言葉の「表層」を支えている構造、すなわち「人の状態」が見えれば、その意味も正確に把握できる。この「人の状態」こそが、ここでいう「霊的構造」である。
つまり、言葉の「表層」だけで神の思いを知ろうとすると、時に「表層」同士の整合性が取れなくなる事態が起き、そこに神学の限界が露呈する。しかし、「霊的構造」を踏まえて「表層」を読めば、整合性が取れるのである。ここに、神学の限界の「突破口」がある。では、この話を具体例で説明したい。
具体例Ⅰ
聖書に、「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません」(Ⅰコリント13:3)とある。ならば、「愛」とは何かとなる。
そこで人は、「愛」(アガペー)の言葉の意味を語源にまでさかのぼって探る。しかし、その方法では「愛」の言葉を支えている「霊的構造」は見えてこないため、ここでの「愛」(アガペー)は、せいぜい見返りを求めないこととして読むのが限界となる。
何をするにも、見返りを求めずに行わない限り意味がない、として受け取るほかはない。見返りを求めない「愛」の行いがあって、初めて人は神に受け入れられると考えるしかなくなるのである。
だがそうなると、行いに関係なく神は人を愛するという他の御言葉の「表層」との整合性が取れなくなる。例えば「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)との決定的な矛盾が生じてしまう。
ところが、「愛」の言葉を支えている人の「霊的構造」が分かると、事態は一変する。元来、神と人とは「一つ」であり、人は神に支えられて存在していた。しかし、その構造に、神と人とを分離する「死」が入り込んでしまい、人は神との結び付きを失ってしまったのである。
神との和解がない限り「滅びるしかない」運命にあるというのが現在の「人の状態」であり、神との関係の「霊的構造」である。それを踏まえると、Ⅰコリント13:3の「愛がなければ」の意味を正確に把握できる。
「愛がなければ」の「愛」とは、「神は愛です」(Ⅰヨハネ4:16)とあるように「神」を指す。よって、「愛がなければ」とは「神」を持たなければということであり、神との和解がなければという意味である。
その者はどれほど立派だと言われることをしても「滅びるしかない」ため、その行いは何の役にも立たない。それ故、「愛がなければ、何の役にも立ちません」とある。これで、行いに関係なく神は人を愛するという他の御言葉の「表層」とは何の矛盾も生じなくなる。では、他の例も見てみよう。
具体例Ⅱ
聖書に、「神によって生まれた者はだれも罪を犯さない」(Ⅰヨハネ5:18)という御言葉Aと、「罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです」(Ⅰヨハネ1:10)という御言葉Bがあり、AとBの御言葉の「表層」だけを見ると明らかな矛盾が生じているように映る。
いくら文面を深く掘り下げても整合性は取れない。すると、どちらの御言葉を優先させるかで論争が起きる。Aを優先させる人はBの「表層」を別の意味に解釈し、Bを優先させる人はAの「表層」を別の意味に解釈するしかないのである。しかし、「罪」という言葉を支えている「霊的構造」が分かると、矛盾は生じない。
その「霊的構造」は次の通りである。人は神の「いのち」によって生きる者とされたのに、そこに神と人とを分離する「死」が入り込み、人の現状は「滅びるしかない」、実質「死人」(ヨハネ5:25)になっていた。これが、人の現状における「霊的構造」である。
そこでイエスは、神と人とが分離した状態を、平たく言えば、キリストを信じないことを「罪」とされた。事実、「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(ヨハネ16:9、新共同訳)と語られている。この「霊的構造」が分かれば、先ほどの矛盾は生じなくなる。
神と分離した状態が「死人」であり、この状態が「罪」である。であれば、神と再結合し(和解し)、キリストを信じるようになれば、その人はもはや「死人」ではなく、「生きる者」であり「義人」である。これが神から生まれた者であり、その者はもう神と分離した「罪」の状態にはない。
そのことを「神によって生まれた者はだれも罪を犯さない」(Ⅰヨハネ5:18)と述べている。「罪を犯さない」とは、もう神と分離できないということである。それで聖書に、「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:39)とある。
それでも天に引き上げられるまでは、この限界のある「肉の体」を持つため、肉の行いをすることから完全に逃れることはできない。それを聖書は、「罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです」(Ⅰヨハネ1:10)と教えている。ここでいう罪は、神と分離することではなく、「肉の行い」のことを指している。
まことに、人の「霊的構造」が神と分離した状態にあることを見据えるなら、そのままでは「滅びるしかない」以上、神の目に映る人の「罪」は、神との和解を拒む「不信仰」であると理解できるはずである。それが明確になれば、「肉の行い」の罪と「不信仰」の罪が区別できるため、先ほどの御言葉には何の矛盾も生じない。
神学の限界と論争の歴史
これまでの神学は、聖書の言葉を支えている「霊的構造」には無関心で、言葉の「表層」だけを手がかりに解釈を試みてきた。そのために解釈の矛盾が生じ、それが神学の限界となっていた。そして、その限界から論争が絶えなかった。
ここで取り上げた具体例の論争は小さなものであり、はるかに大きな矛盾を巡る論争が生じ、それがキリスト教界に分裂を引き起こしてきた。すなわち、教会をいくつもの教派に分けてしまう事態にまで発展した。その主な論争だけでも以下の通りである。
- 救済論(カルバンvsアルミニウス)
- 終末論(前千年王国・無千年王国・後千年王国)
- 贖罪論(代償説・道徳感化説・勝利者キリスト説)
- 聖霊論(ペンテコステ派vs非ペンテコステ派)
- 信仰と行い(パウロvsヤコブ書)
そこで、これらの主な論争の問題点を見てみたい。一体何が論争を引き起こさせた原因なのかを明らかにし、その問題の解決はどこにあるのか、「突破口」を模索する。それが、ここからの本題となる。題して、「神学の限界と突破口」である。
では次回は、主な論争と解決を、上記に記載した論争の順番で見ていくことにする。(続く)
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