今回は、10章18節~11章6節を読みます。
共同体が自ら生み出すペガ
10:18 怠惰になると天井は落ち、手を抜くと家は雨漏りがする。
コヘレトの言葉は、9章11節からペガ(פֶגַע / 偶発的な事故)が主題となっています。そこでは、ペガは「人の知恵や徳とは無関係に、偶発的に降りかかる打撃」という観点から語られていました。10章18~20節にもペガ的現実が見られますが、やや様相が異なっています。ここでは、「人間の知恵や徳を超えて、制御を離れてしまうことによる事故」という観点から示されています。
18節では、家が崩壊していく様子が示されています。これは「人の気がゆるむ(「怠惰」「手を抜く」)と、その知恵は生かされず、結果やがて崩壊しペガとなる」という内容だということができるでしょう。ここでは、家が事例として挙げられていますが、言われていることは、国にも当てはまります。国の統治者の気がゆるめば、その国は次第に傾いていくのです。
19 食事を整えるのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。銀はそのすべてに応えてくれる。
コヘレトの言葉では、パンとぶどう酒は、9章10節まで「神様から頂く日々の糧」でした。しかし、19節の食事(原語は「レヘム / לֶחֶם」でパンのこと)とぶどう酒は、宴席のそれでしょう。「銀はそのすべてに応えてくれる」と続き、宴会を開いても、銀すなわちお金に困らなければ構わないという安直な姿勢が表されています。
16節に「王が若者で、高官たちが朝から食事をする国よ、あなたに災いあれ」とありましたが、統治者がお金にまかせて享楽的な生活をすれば、その家や国は傾いていきます。これもまた、制御されずに崩壊する事例であり、そこに暮らす者にとってはペガになってしまいます。
20 心の中で王を呪ってはならない。寝室で富める者を呪ってはならない。空の鳥がその声を運び、翼を持つものがその言葉を知らせてしまう。
この節の冒頭部分は、新共同訳では「親友に向かってすら王を呪うな」でしたが、聖書協会共同訳の訳がより文脈に合っていると思います。ちなみに、新改訳2017も「心の中でさえ、王を呪ってはならない」と、聖書協会共同訳とほぼ同じ訳が当てられています。
「心の中」と「寝室」は、いずれも隠れたところです。そのような隠れたところで発した言葉であっても、一緒に住んでいる者の耳に入るなどして、鳥があたかも運んでいくように、言葉は一人歩きしてしまうことがあるということでしょう。それもまたペガです。
共同体においては、ゆるみやお金、言葉などが、人間の知恵や徳を超えて制御を離れてしまうことで、ペガとなることが語られているように思えます。
11章1~6節
9章11節~10章20節において、さまざまなペガが示されてきましたが、11章1~6節では、それに対する人間の対処の仕方が示されているように思えます。
9章7~10節では、それまでに書かれていた不条理への対処が示されていました。そこでは、アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』が、神の不可知性における行為(コヘレト)と、神なき不条理への反抗(カミュ)という違いはあるにしても、不条理に対して意味を持っていることをお伝えしました(第16回参照)。11章1~6節は、その9章7~10節と同じ方向を向いているようにも思えます。
しかし、同じ方向を向いていながらも、「それでも今を楽しく暮らしなさい」という不条理への対処と、ペガへの対処には、差異があると思います。それを感じ取りながら読んでいきたいと思います。
水の面にパンを投げよ
11:1 あなたのパンを水面に投げよ。月日が過ぎれば、それを見いだすからである。2 あなたの受ける分を七つか八つに分けよ。地にどのような災いが起こるか、あなたは知らないからである。
この箇所を読むたびに思い出すのは、2007年7月16日に、当時奉職していた新潟県柏崎市で経験した中越沖地震です。マグニチュード6・8、最大震度6強という大地震は、まさにペガの出来事です。2節の地に起こる災いに該当するといえるでしょう。
こうした災害時に問われるのは、近隣の同労者との関係や、地域社会における教会の在り方です。日頃から、自分が受ける分を他者と分かち合うことをしていれば、災害に遭っても直ちに助けられ、また助け合うことができます。
その点で、それまでの私には反省すべきところがありました。たとえ、水の面にパンを投げるようなことであっても、普段から「与える」こと、「分かち合う」ことが大切なのだと思います。それは、コヘレトが9章9節で説いていた「他者との歩み」ということでもあると思います。
次の賛美歌の歌詞は、この聖書箇所を元に作られたとされています。
むくいを望まで 人に与えよ
こは主のとうとき みむねならずや
水の上に落ちて 流れしたねも
いずこの岸にか 生いたつものを
(『讃美歌21』566番1節)
「いずこの岸にか 生いたつものを」は、「災害に遭遇したときに芽生えること」と捉えることも可能でしょう。ペガへの対処の一つは、未来に向けての、普段からの他者との善き歩みということができると思います。
種を蒔き続けよ
3 雲が満ちれば、雨が地に降り注ぐ。木が南に倒れても、北に倒れても、その倒れた場所に木は横たわる。4 風を見守る人は種を蒔(ま)けない。雲を見る人は刈り入れができない。5 あなたはどこに風の道があるかを知らず、妊婦の胎内で骨がどのようにできるかも、知らないのだから、すべてをなす神の業は知りえない。6 朝に種を蒔き、夕べに手を休めるな。うまくいくのはあれなのか、これなのか、あるいは、そのいずれもなのか、あなたは知らないからである。
「雲が満ちれば、雨が地に降り注ぐ」とは、起こるべきことはいやでも起こるということです。「木が南に倒れても、北に倒れても、その倒れた場所に木は横たわる」とは、一度起こったことは後には戻せないということを意味しています。これらは、人間の制御外のことです。雲は時に大雨の災害をもたらすでしょうし、地震で電信柱が倒れれば、やはり被害をもたらすでしょう。つまり、ペガは起こるべくして起こるということです。
4節には、種蒔きや刈り入れをする人は、風や雲をあまり気にするな、ということが書かれています。これは、障害が起こることを気にし過ぎるならば、あるいは条件が整うのを待ち続けるならば、いつになってもできないということです。ここをペガの観点で読むならば、事故や災いの可能性は常にあるけれども、それを気にしていたら前には進めないということだと思います。
5節は、自然の変化も、生命の誕生も、人間には分かり得ない神の業なのだということでしょう。そして、だからこそ種は朝にも夕にも蒔けと勧めます(6節)。ユダヤの時間では、夕が一日の始まりで、朝は一日の途中ですが(創世記1章5節など参照)、そうした条件にかかわらず、時々においてするべきことをしていなければ、実りは得られないということでしょう。
ペガは偶発的な災いですが、偶発性は実りにも働きます。実りは未来の出来事です。未来は人間の計算や予測を超えていますが、だからこそ、種を蒔く行為が大切なのです。どの種が芽を出すかは分からないけれども、蒔かれた種だけが、未来の実りへとつながっていきます。そう捉えると、コヘレトが伝えようとしていることは、「ペガが起こるこの世界においても、人間は未来に向かって責任ある行為をなし続けていくことが大切なのだ」ということであるように思えます。
9章7~11節が「不条理に対して今を楽しく生きること」の大切さを説いていたのに対し、11章1~6節は「未来に向けての説き明かし」であると感じさせられます。私たちは、明日何が起こるのかを知りません。ペガが起こるかどうかは分かりません。努力が報われるかどうかも分かりません。それでも種を蒔き続ける姿勢こそが、コヘレトの勧める生き方なのだと思います。
ドストエフスキーの『白痴』と併せ読む(4)
第18回、第19回、第20回に続いて、ヒョードル・ドストエフスキーの『白痴』との併せ読みを行います。今回は、亀山郁夫訳『白痴(3)』を傍らに置いて進めたいと思います。この巻は、この小説の第3部がそのまま一冊になっており、ペガが渦巻く内容になっています。小説の主人公であるムイシキン公爵が、種を蒔く人として描かれています。
この巻は大枠で、①エパンチン家というムイシキン公爵の遠縁の家での出来事、②イッポリートという結核で余命わずかと宣告されている青年の告白、③第1部の中心人物だった女性ナスターシヤが、エパンチン家の三女アグラーヤに書いた手紙の内容――という構成になっています。
不安定な共同体としてのエパンチン家
エパンチン家の家族構成は、官僚であるエパンチン将軍とエリザヴェータ夫人、長女アレクサンドラ、次女アデラーイヤ、三女アグラーヤの5人です。この一家は一見すると安定していますが、内側には緊張が充満しています。エパンチン将軍は社会的立場があり、エリザヴェータ夫人はしっかり者です。年頃の3人の娘たちは、それぞれが美しく、また音楽や絵画の才能を持ち合わせています。その意味では、堅固な家庭ではあります。
しかしながら、一家の主人であるエパンチン将軍は、外面は立派でも、道徳的に必ずしも強固ではありません。エリザヴェータ夫人は感情の起伏が激しく、そのために家の空気はいつも揺れています。また3人の娘たちはそれぞれ個性が強く、結婚問題が母親の悩みの種となっています。さらに、社交界の視線や名誉、うわさを気にする家庭でもあります。
その意味では、コヘレトの言葉10章18~20節の世界なのです。天井が落ち、雨漏りがする家とまではいえないものの、ゆるみが内側に潜んでいる家であり、またお金に支配され、鳥に言葉を運ばれやすい家であるといえましょう。
その家に、遠縁の青年ムイシキン公爵がやって来ます。特に4人の女性たちは、彼を巡ってさまざまな思惑を爆発させます。それに対してムイシキン公爵がどう振る舞うかですが、彼は計算をしません。女性たちやそこにいる人たちが言うことに対して、ただ誠実に応答を続けます。
彼の言葉や態度はしばしば無力に見え、時には事態をさらに混乱させることさえあります。しかし、彼の応答は、水の面にパンを投げることであり、朝にも夕にも種を蒔き続ける姿なのです。
イッポリートの告白―死を宣告されるというペガ
場面は、ムイシキン公爵の別荘で行われた彼の誕生パーティーの席に移ります。そこでは、レージェベフという人物が、ヨハネ黙示録について持論を展開する大演説を行います。その席に、結核で余命わずかと宣告されている、イッポリートという青年も参加しています。そして、死に直面した彼の思いの丈が全て語られることになります。
レーベジェフの大演説後のイッポリートの告白は、コヘレトの言葉全体とも強く響き合っています。コヘレトは抗黙示思想を展開していますが、イッポリートの告白は、レーベジェフのヨハネ黙示録論の主張の後になされているからです。死を間近にしているイッポリートの考察は、レーベジェフの演説とは真っ向から対峙します。
第19回で、ムイシキン公爵がロゴージンの家で、ハンス・ホルバインの絵画「墓の中の死せるキリスト」の模写を見たことをお伝えしました。イッポリートも、ロゴージンの家に行って同じ絵を見ています。イッポリートにとっては、結核による死の宣告はまさにペガです。彼は、死せるキリストの絵を見ることによって、そこで自然法則の冷酷さを見つめることになります。
イッポリートは無神論者ではありませんが、その絵を見て、「もしこの死体を見たら、キリストの弟子たちは復活を信じられただろうか」と思ったことを告白します。彼は、信じたいと思っているのですが、自然法則の前においては信仰が崩れることを直視しています。
そして、レーベジェフのヨハネ黙示録論を否定します。ムイシキン公爵の誕生パーティーという、「生」が強調されている場において、死に直面しているイッポリートが、レーベジェフを論破していくのです。
ムイシキン公爵は、この時にはどう振る舞ったのでしょうか。彼は誰も論破せず、自らの説明もしません。彼は、ただ寄り添う存在として描かれています。ムイシキン公爵のこの応答は、結果が保証されている行為ではありません。それでも彼は、種を蒔き続けるのです。
続くナスターシヤの手紙の内容も、ペガの出来事と深く関わっているので続けてお伝えしたいのですが、長くなってしまうため、次回にお伝えすることにします。(続く)
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