今日のキリスト教界には、巧妙に偽りの自己義が広まっており、私たちは注意する必要があります。イエス・キリストの時代、姦淫の現場で捕まった女性がいましたが、主は彼女を解放されました。主は言われました。「行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」
主は「もう一度過ちを犯したら、神は赦(ゆる)さない」とは言われませんでした。そして、これが神の愛です。「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。7回まででしょうか」――「7回を70倍するまでです」
しかし今日のキリスト教界では、うわさやゴシップだけで他のクリスチャンと争い、憎むことが頻繁に起こります。私たちには、深みが欠けているのです。
私たちが直面する問題には、時に多くの隠れた側面があります。イエス・キリストは嫉妬のために、十字架にかけられました。ピラトは群衆を満足させるために、イエスを十字架刑に引き渡しました。また、単に人が過ちを犯した場合もあります。例えば、姦淫の現場で捕まった女性のように。
しかし、私たちが人々をどのような状況で見つけたとしても、また、人々がどのような状況にあるとしても――愛こそが答えなのです。
興味深いことに、たとえ私たちが他者について見たり聞いたりすることが全て真実であったとしても、そこにはなお、神の道があります。世はこれを知りません。また、今日の多くの教会も、このような状況をどう扱うべきか知りません。
聖書における友情と真の兄弟愛は、世が反応するように反応すること以上の意味を持ちます。箴言18章24節には「兄弟よりも固く結び付く友(ダベクH1695)がいる」とあります。
「固く結び付く」とは「cleave(くっつく、固着する)」の意味です。これは霊の感情から生まれる愛であり、従って「ドード」(絶え間なく燃える愛)の一部であって、「アガペー」(意志に基づく愛)や 「エピポテーシス」(心に基づく愛)とは異なります。この2つ(アガペーとエピポテーシス)は、聖書が「チャサク」と呼ぶ種類の愛です。それらはより抽象的で本質的な形である一方、「ドード」はすぐに現れ、既に具体化されており――すぐに感じることができ、既に生きており、神の命(ゾーエー)によって活性化されます。
多くのクリスチャンは、「ドード」(現存し燃える、すぐ使える安定した愛)と「アガペー」(抽象的で比喩的な本質の愛)の違いを理解していません。どちらも神から来ていますが、「ドード」は本質的な状態ではなく、信仰(ヒュポスタシス、substance)が生かす必要はありません。
「ドード」は常に生きており燃えています。友情を維持する愛――「アガペー」だけでは成し得ない愛――は「ドード」であり、固く結び付くことで現れます。
固く結び付くこと(ダベク)は、「ドード」に結び付いた関係性の愛であり、感情(聖書の感情は不安定や変動を意味するものではありません)と、どんな状況にも立ち向かい、克服する霊の温かさに基づいています。「アガペー」が持続するためには、この愛が必要です。
固く結び付くことは忠誠心に関わるものであり、今日のキリスト教界において、多くの人がまだ理解していません。これが、多くの人がガラテヤ書6章1節を実践できない理由です。
兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。(ガラテヤ人への手紙6章1節)
「アガペー」は条件によります。根本には、選択肢があります。しかし「ドード」は、その現れにおいて、さらに強く燃えます。「ドード」は、覆い隠しと赦しを通して働きます――消すことのできない炎であり、「アガペー」が完全に働く前に、必ず働いていなければなりません。
私たちが救われる前、「ドード」は神における「フィリア」を通して働いていました。それが、私たちと神との関係の土台を最初に整えたのです。「ドード」は「アガペー」のように選択や条件だけで働くのではなく、温かさや不義を覆い隠そうとする意志によっても働きます――これなしに、誰も救われることはできません。
愛を追い求める者は背きの罪をおおう。同じことを蒸し返す者は親しい友を離れさせる。(箴言17章9節)
上の節で語られる「愛」は「フィリア」であり、「アガペー」(条件付きの愛)が私たちの救いのために働く前に、この愛がまず働かなければなりませんでした。
「フィリア」は和解、他者の過ちを覆うこと、そして目的の一致を最初に重視するものであり、他の細かいことを考える前に働きます。ですから、もし神のようになり、友情を極めたいのであれば、他者の過ちに目を奪われてはいけません――ただし、それを真の愛(自己義とは異なる、純粋な愛)で本当に対処する必要がある場合を除きます。
「アガペー」は「プロートス」(序列で最初)の愛です――救いの観点では高位の愛です(キリストの救いに至る意味だけでなく)。そして救いの全体面における「アルケー」(起源、源)としての愛ではありません。「プロートス」(序列で最初)の愛の前には「アルケー」(起源、源、始まり)の愛がなければなりません。
火のように働く愛(ドード)があります。これこそが、雅歌で語られている愛です。しかし今日、教会における私たちの愛は「アガペー」しか知らず、これが多くの人がペテロの手紙第一4章8節を理解できない理由です。
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。(新改訳)
そして何よりも、互いに熱心な(エクテネイスG1618)愛を持ちなさい。愛は多くの罪を覆うのです。(欽定訳)
熱心な愛は、多くの罪を覆います。熱心な愛は「アガペー」だけではありません。ペテロはまず、彼が語っている愛の種類を定義しました――それは「熱心な愛」であり、単なる「アガペー」ではありません。「アガペー」だけでは、他者の過ちを克服する愛を実践する力を持つことはできません。
熱心な愛こそが鍵です。「熱心」は「エクテネイス」です。これは「ティーノ」を強めた言葉で、「ティーノ」は「張りつめている、緩まない」という意味です。熱心な愛は、神の消すことのできない炎によって駆動される愛(アガペー)です。これこそ神の本質であり、完全な愛とはこういうものなのです。
憎しみは争いを引き起こし、愛(アハバーH160)はすべての背きをおおう。(箴言10章12節)
ヘブライ語で「熱心な愛」は「アハバー」です。「アガペー」だけでは、他者の過ちを克服するための持続力や熱意が十分ではありません。なぜなら「アガペー」にはまだ「自己」の要素が残っているからです。
神はその独り子をお与えになるほどに世を愛されました。しかし、この行動にも条件が伴います――「彼を信じる者は誰でも」という条件です。
「アガペー」は条件によります。根本には選択肢があります。ですから「ドード」(神の消せない燃える愛)によって燃やされなければ、停滞してしまうことがあります。
ここでは、固い結び付きと忠誠心を支える愛について説明してきました。多くのリーダーがこの愛の中を歩んでいないのです。熱心な愛を理解している人は、彼らが語ったり行動したりするときの意図を見抜くことができます。彼らは常に「義」のことばかりです。
しかし、義が愛を生むのではなく、愛が義を生むのです。なぜなら、神こそが愛だからです。ですから、うわさやゴシップ、口論、偽りの告発、他者の過ちや悪行、失敗――真実であれ偽りであれ――を克服するには、熱心な愛が必要です。
今日、多くのクリスチャンを地獄に導く恐ろしい確かな事実は、教会もこの世界も、熱心な愛(アハバー)を理解していないということです。世には選択の余地がありません。なぜなら、常にその父である悪魔の道に従うからです。しかし教会は、同じように地獄への道をたどってはならないのです。
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