前回は「感情的な愛」と「意志的な愛」の違いについて幾つか解説しました。
わざわざ学ぶ理由があるのか、疑問に思う方がいるかもしれません。しかし、この違いを理解することで皆さんは、神への愛を育みつつ、大きな成長を遂げることでしょう。本連載の目的は、皆さんが、神へのより深い愛を育み、最終的に「神の友」となることです。
これまで、「アガペー」が「神の愛」の最高の形態であるとされてきました。しかし、それは聖書のみことばによって裏付けられたものではありません。主イエスには五役者(ごえきしゃ)――使徒、預言者、伝道者、牧師、教師――たちも控えていましたし、今日のキリスト教会にはさらに多くの聖職者たちが存在しているにもかかわらず、主イエス・キリストと父なる神はいまだに嘆き悲しんでおられることでしょう。私たちは「神の友」と呼ばれる存在となるのに十分なほど、神や主イエスに近づこうとする努力をしてこなかったのですから。
来たるべき終末の時の神の働きは「神の子ら」を通して明らかに示されます。しかしそれは、主に「子たる身分」を獲得した人々(「神の子どもたち」ローマ人への手紙8章19節)によってなされるでしょう。
被造物は切実な思いで、神の子たる身分を持つ者たち(ヒュイオスG5207)が現れるのを待ち望んでいます。(ローマ人への手紙8章19節、ギリシャ語より)
この箇所の日本語訳は「神の子どもたちの現れ」などとなっていますが、これは正確な訳とはいえません。原語であるギリシャ語「ヒュイオス」は「成熟した息子たち」――神の「子たる身分」という関係に入った者――を意味するからです。
しかし、このような「神の子たる身分」を持つ者になるには、まず神の「友」として成長する過程を経なければなりません。それが霊的な基本型といえるでしょう。前回は雅歌8章6節を基に解説しました。そこから、完全な神の愛には2つの要素があることを学び、次のような図式で提示しました。
アハバー(神の愛)=カシャク(意志的で知性的な愛)+ドード(感情的な愛―神の炎)
「カシャク」が持つ意志的な要素は「アガペー」と呼んでもよいでしょう。「ドード」は神の愛の感情的な要素になります。
前回の復習となりますが、神の感情的な愛とは神の愛の火――首尾一貫し、安定的で、焼き尽くすほどの(変革的な)もの――です。これは「情熱」と混同されがちですが、この学びではあえて区別しました。「情熱」は「ドード」と同じではありません。「ドード」は「シャルヘベトH7957」で表される「火で焼き尽くすような感情的な神の愛」のことです。
「情熱」とは、情欲やレイプなど、「エロース」――自己中心的で相手のことを配慮しない愛欲――の背後にある力です。「エロース」の主な目的は自己を満足させることです。
「アガペー」(意志的な愛)と「ドード」(感情的な愛)を比較するために、前回は「ドード」の構成要素である「ダバク」(固守)について調べました。
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ(ダバクH1692)、ふたりは一体となるのである。(創世記2章24節)
「ダバク」は、既存の安定した絆のことを指します。それは、相互的であってもなくても持続可能なものと考えられます。それは、貞節という神の律法に沿った本物の耐久的な愛着を意味しています。
「ダバク」は、現実の関係的経験――肉体的にも感情的にも――に基づいています。夫婦関係において、「ダバク」(固守)の形成は、肉体的に共存することによって始まり、性的に親密になることで完成されます。
対照的に、知性と意志から成る「カシャク」――つまり、「アガペー」――は、決意もしくは意志による熱望から生じます。それは、行動を通じて現れるまで、思考の中にだけ留まる場合があります。ですから、「アガペー」は実際、まだ現実のものとなっていないかもしれません。それは、意図に基づくものであるからです。
「カシャク」の例(絆形成前の「献身」)
その捕虜の中に姿の美しい女を見て、恋い慕い(カシャクH2836)、自分の妻にしようとする場合には(申命記21章11節)
この節の「カシャク」は契約前の意志的熱望から始まっています。行動へと導かれるにせよ、意図から始まっています。
ソロモンの所有するすべての倉庫の町々、戦車のための町々、騎兵のための町々、またソロモンがエルサレム、レバノン、および彼の全領地に建てたいと切に願っていた(カシャクH2836)ものを建てた。(列王記第一9章19節)
この節の「カシャク」は幻としての熱望を指すので、実際にはまだ何も起こっていません。
「ダバク」(固守)には常に深い愛情、熱望、共有経験が含まれるため、より永続的です。「固守する」とは永久的で終生のものであることが意図されたもので、創世記2章24節にも見られます。
対照的に、「アガペー(アガパオー)」は行動に移されない限り永続的ではないものといえるでしょう。外的な経験というよりは、内的な意図に基づいているため――本物の感情的愛着か関係的愛着へと成熟しない限り――変わる可能性があります。
このように、「カシャク(アガペー)」は必ずしも永続的であるとはいえないかもしれません。例を見てみましょう。
シェケムとディナの例
シェケムはディナを心から恋い慕って(カシャク)いましたが、それは熱望に基づくものであって契約的な愛ではありませんでした。結果として、罪と滅亡に至ることになりました。
鍵となる洞察
「感情的な愛」(ドード)には、絆が既に存在し、永続性と深い献身の感覚が伴います。
「意志的な愛」(アガペー)の場合、絆は知性において決意されたか保持されたものです。それは、まだ現実のものとなっていないかもしれませんし、永続的なものではないかもしれません。経験ではなく、意図に基づいているからです。
最終比較:相互性
「感情的な愛」(ドード)は、人間の愛の形(フィリアG5373)としての未熟な初期段階を除けば、通常は相互的なものです。肉体的な親しさ、共有経験、ほぼ壊れることのない絆が伴います。このように、一般的に「ドード」は十分に成熟すると、相互的で深い関係性を持つものです。
一方、「アガペー」は、見返りがなくても存在するという点で、一方的なものといえるかもしれません。それは、相互的な経験ではなく、個人的な選択に基づく愛です。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)
この節における神の「アガペー」の愛は、私たちがまだ罪人であって、その愛に応じることができなかったときに発動されました。
「永続性」「経験」「相互性」――これら3点の基盤となるもの
さて、「感情的な愛」(ドード)と「意志的な愛」(アガペー)を比較して位置付ける用意が整いました。
「愛」とは何でしょうか。つまり、「愛」を「愛」たらしめるもの――愛と判定され定義されるための尺度――とは何でしょうか。
「愛」を「愛」たらしめるもの
単なる神学的または教義的な意味ではなく、関係的、経験的な意味を特に探っていきたいと思います。
単なる熱望ではない真の愛となるためには、次のものがなければなりません。
1. 感情的愛着(愛情)
「愛」には「愛着」「愛情」「愛する人と共に居たいという感情的憧れ」などがあります。それには「温もり」が不可欠です。
感情的な愛(ドード、フィロス、フィリア、アッルーフ、メレア)に必要な絆をつくり出すために必要なのは「温もり」です。「温もり」の実体がなければ、感情的な絆も愛情も確立できないでしょう。
上に示した「感情的な愛」のあらゆる形態は「温もり」つまり「熱」に基づいているので、真の愛を築く基盤が既に「感情的な愛」の中に本質として備わっています。
「ドード」は、その度合いが特に強いです。深い感情的な結び付き――温もりと火――を伴っているからです。
例を見てみましょう。
愛(アハバーH160/フィリアG5373)を追い求める者は背きの罪をおおう。同じことを蒸す返す者は親しい友を離れさせる。(箴言17章9節)
神がこの世と、そして、信徒たちと愛を確立しようとされたとき、神が最初に提示してくださった愛の種類は「アガペー」ではなく「フィリア」でした。
上の聖句から分かることは、神が、私たちと愛を確立することを望まれたので、私たちのレベルまで降りてこられ、私たちの罪を無条件で赦(ゆる)してくださったということです。神はまず、そのひとり子であられるお方を送ることで、私たちをご自身と和解させてくださいました。この「感情的な愛」(フィリア)のおかげで、神は私たちの罪を赦し、和解への道を整えてくださったのです。
これまで教えられてきたことに反して、「アガペー」が実際に機能するためには、幾つかの条件を満たす必要があるようです。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された(アガペーG26)。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)
この場合、「信じること」が「アガペー」を通して救われるための条件となっています。つまり、「アガペー」は無条件なものではありませんし、本質的に温もりが備わっているものでもありません。
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。(エペソ人への手紙2章8節)
ここでも、救いには「信仰」が必要で、「アガペー」の満たすべき条件となっていることが示されています。
しかし、箴言17章9節の「感情的な愛」である「フィリア」によって、神の無条件の赦しおよび和解の追求には「温もり」が提示されています。それは、神の感情的な愛の「温もり」と「誠実」であって、神の「アガペー」に向かって未信者の心を開かせる原動力となるものです。
このように、「フィリア」が「アガペー」より先にあるのです。「フィリア」は感情的で温もりを備えつつ、「アガペー」を受け入れる基調を整えるものです。「アガペー」は「好意」と「条件付きの応答」に基づくものです。
ですから、箴言17章9節には、神は「フィリア」の愛を示しつつ私たちを愛してくださって、私たちの罪をあげつらうことをされなかったことが示されているのです。
「アガペー」の本質は感情的ではありません。感情を通して表されることがあるとはいえ、感情的愛着という側面は持たずに存立することができます。それ故、「アガペー」だけで「ドード」のような深い関係的つながりをつくり出せるとは限らないのです。
「アガペー」は「好意」と「選抜」に基づいています。選抜のための条件を満たせるかどうかに基づいて機能するものなのです。それが「アガペー」が実行に移されるかどうかを決定付けます。
結論:「ドード」のような感情的な愛はこの条件を満たします。しかし、「アガペー」(意志的な愛)は感情的愛着の要件を十分に満たすことができません。
2. 献身(意志/決心)
「愛」は単なる移ろう感情でも、知的な憧れでもありません。それは、相手への献身を伴います。
神はアブラハムと約束し、それを果たしてくださいました。
しかし、主があなたがたを愛された(アハバーH160/アガパオーG25)から、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖(あがな)い出されたのである。(申命記7章8節)
この聖句の「愛」は七十人訳聖書では「アガパオー」――「好意」という愛――というギリシャ語に訳されています。神は、父祖たちとの約束の故に、イスラエルの民を好み、選抜し、選択してくださいました。それは「意志による愛」であり「選択による愛」です。
しかし、ここで鍵となるのは、「アガパオー」が移ろうものではない点です。アブラハムが亡くなった後も、神はその思いを変えませんでした。神は、アブラハム――神の友――への約束にずっと献身的なままでした。
この通り、「アガペー」には献身が伴います。
同じことが「ドード」(感情的な愛)にも当てはまります。それは、特に「結婚」という文脈においてです。人間の結婚に関して「ドード」がどのように使われているかを見てみましょう。
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ(ダバクH1692)、ふたりは一体となるのである。(創世記2章24節)
これは、男が、密着し、結び、追い求めて妻と一体となることを意味しています。イエス様は「ドード」の持つ「安定性」について力説しておられます。
ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。(マタイの福音書19節6節)
「ドード」は「安定性」と「献身」によるものです。
また、前述の通り、「ドード」は移ろうことのない神の火であり、安定的に燃え続けるものです。
結論:「献身」という条件は「アガペー」も「ドード」(感情的な愛)も共に満たしています。
3. 相互性(共有関係)
「愛」は結合、親しみ、絆の共有を求めるものです。
「ドード」は多くの場合、相互的です。そして、一体性と親密な経験を求めます。「ドード」には相互的な固守が含まれています。
私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。(雅歌6章3節)
この聖句から分かる通り、「互恵性」は「ドード」の中心です。
「アガペー」は一方的なものに成り得ます。例えば、神は、応答を得る前から犠牲的な愛でこの世を愛されました。「アガペー」の愛は、見返りの愛を得ずして敵を愛することもできるのです。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し(アガペー)、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイの福音書5章44節)
「アガペー」は意志的で主導的です。応答のあるなしにかかわりません。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛(アガペーG26)を明らかにしておられます。(ローマ人への手紙5章8節)
ここに、相互性はありません。「愛」は、私たちがまだ敵であったのに発動されました。
注釈
「フィリア」(感情的な愛の一形態)には、「感情的なアンビバレンス(両価性)」が伴うことがあります。隠されていたり未解決であったりする場合には特にそうです。「フィリア」の始まりは相互的でないかもしれませんが、その潜在的な「温もり」が「ドード」や「フィロス」のように相互的な愛として表れてくるようになるでしょう。
あからさまに責めるのは、ひそかに愛(フィリア)するより良い。(箴言27章5節)
この聖句から2つの感情的な愛――「フィロス」(あからさまに責めること)と「フィリア」(ひそかに愛すること)――を比較することができます。「ひそかな愛」である「フィリア」でさえもなお、相互性に導く力という点では「アガペー」に勝っています。
結論:「アガペー」は相互性という条件を満たしていません。それに対して、「ドード」は条件を満たしています。「ドード」と「フィロス」には常に相互性が含まれています。
4. 行動(現実における表現)
知性による熱望「エピポテーシス」(カシャクの一形態)が行動を伴わずに存在することが可能であるからといって、それだけが「愛」ではありません。
ソロモンの所有するすべての倉庫の町々、戦車のための町々、騎兵のための町々、またソロモンがエルサレム、レバノン、および彼の全領地に建てたいと切に願っていた(カシャクH2836)ものを建てた。(列王記第一9章19節)
さらにバアラテ、およびソロモンが所有するすべての倉庫の町、戦車のためのすべての町、騎兵のための町々、またソロモンがエルサレム、レバノン、および彼の全領地に建てたいと切に願っていた(カシャクH2836)すべてのものを、彼は建てた。(歴代誌第二8章6節)
- 「愛」は、言葉、行動、実在を通して現実に現れなければなりません。
- 「ドード」は深い感情的つながりを通して「愛」を表します。
- 「アガペー」は犠牲的に与えることを通して「愛」を表します。
まとめ
愛の条件 | |||
---|---|---|---|
条件 | 愛を愛たらしめる要件 | アガペー | ドード |
相互性 | ○完結された愛 | ×任意的 | ○必須 |
感情的愛着 | ○感情的な愛に必要 | ×必要でない | ○中心的 |
行動 | ○愛に行動は不可欠 | ○中核的 | ○感情に従う |
献身 | ○愛に安定は不可欠 | ○実体的 | ○実体的 (雅歌8章6、7節) |
最終的注釈
これまで多くの場合、「アガペー」が「神の愛」であると教えられてきました。それ自体は正しい教えではありますが、「アガペー」だけが神によって表される「唯一の愛」であるかのように教えられることが多かったのではないでしょうか。しかし、ここまで「ドード」(神の感情的な愛)をはじめとした他の形態の「感情的な愛」について学び、関係的親密さと深い経験性という観点では「アガペー」よりも高く位置付けられるということを知ることができました。
ですから、さまざまな文脈の中で「神の愛」のあらゆる次元を研究し、それぞれの位置付けを十分に比較することが必要不可欠です。
「アガペー」は、もちろん「神聖な愛」ですが、「関係的な愛」――そして、「感情的な愛」――の形態の中では最高位のものではありません。そのことを明らかにするために他の聖句を示しつつ解説を続けたいと思います。「ドード」のような「感情的な愛」は、関係神学においてさらに大きな注目と優先に値するかもしれません。
注釈
「ドード」(感情的な愛)について論じる場合、一般的に人間関係においてその魂の深い所にある性質故に、より永続性を伴いやすいものであることに注意することが重要です。「ドード」は、人間関係において深い共有経験に根差しているので、より永久的でより壊れにくいものとなっています。
例えば、夫婦関係においては、「ドード」によってつくられた絆が夫婦間の感情的愛着と結び付くことで「献身」となって表れます。この深いつながりと熱情(クィナーH7068)の実体こそが、人間関係という文脈において感情的な愛を永続的にするのです。
例えば、創世記2章24節では夫婦の間に「固守」(ダバク)が見いだせます。
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ(ダバクH1692)、ふたりは一体となるのである。(創世記2章24節)
これは、共有経験を通した耐久的な愛着という概念を示しています。人間関係において「ドード」は永久的なもとして組み込まれているからです。
神は人を一体に造られたのではないか。そこには、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、自分の霊に注意せよ。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。(マラキ書2章15節)
このマラキ書2章15節を読むと、私たちの霊における神の熱情こそが、「固守」(ダバク)を保全し、永続性を高めるための忠誠を養うものであるということが分かります。
しかし、この「永続性」は人間関係という文脈において幾つかの制約がないわけではありません。「ドード」には、壊れないように保つための献身が必要とされるからです。一方、「アガペー」(意志的な愛)は、犠牲的で無条件なものであるとはいえ、行動に移されない限りは必ずしも永続的であるとはいえません。
シェケムとディナ(創世記34章3、4節)の例は「カシャク(アガペー)」が色あせるか壊れる可能性のあることを示しています。「アガペー」は、「ドード」に必要とされるような経験に基づいた絆というよりは、意志と意図に基づいているからです。
ヨハネの福音書3章16節の聖句は、「アガペー」の犠牲的な性質を示していますが、特に人間関係においては永続性を明確に保証するものではありません。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された(アガパオーG25)。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)
「アガペー」は、人類への神の犠牲的な愛を表していますが、人間とは、それに応答することも献身を維持することもできない存在なのかもしれません。それ故、「アガペー」は人間の領域では必ずしも永続的でないものなのかもしれません。永続的であるかどうかは、個人の応答と選択によるのでしょう。
「ドード」(感情的な愛)対「アガペー」(意志的な愛)
創世記2章24節の例に見られるように、「ドード」には、感情的愛着が含まれ、魂の深い所にあるつながり故に、より永続的なものです。この感情的な絆があることで「ドード」は永久的であり、意図と意志に根差した「アガペー」に比べて安定的で傷を受けにくいまま保たれるもののようです。
「ドード」の「永続性」は絶対的なものではなく、深く耐久的な感情的献身を伴う関係においてより強く表れるのが特徴です。「アガペー」は「愛」を主導することができるものである一方で、「ドード」は人間関係において「愛」を強固にし、保存する傾向があります。
ですから、人間というものを考える際に、「ドード」(感情的な愛)はより長続きする関係に導かれやすいといえるでしょう。「アガペー」は、基盤となるものですが、それを貫くためには、能動的で継続的な選択と行動が必要となります。「アガペー」は、二者間で共に養われるのでない限り、関係的継続性に欠けるかもしれません。しかし、「ドード」にはそれがあるのです。
◇