彼らはモーセのところへ進み寄って言った、「われわれはこの所に、群れのために羊のおりを建て、また子供たちのために町々を建てようと思います。しかし、われわれは武装してイスラエルの人々の前に進み、彼らをその所へ導いて行きましょう。ただわれわれの子供たちは、この地の住民の害をのがれるため、堅固な町々に住ませておかなければなりません。われわれはイスラエルの人々が、おのおのその嗣業を受けるまでは、家に帰りません。またわれわれはヨルダンのかなたで彼らとともには嗣業を受けません。われわれはヨルダンのこなた、すなわち東の方で嗣業を受けるからです」。(民数記32:16~19)
今回の聖書箇所では、神様の最善が示されているにもかかわらず、信仰を働かせることなく、現状のままでいいと妥協してしまう民の姿が記されています。しかし、私たちの信仰の歩みにも、同じような姿はないでしょうか。神様の最善が示されているにもかかわらず、今置かれている状況が最善であると自分を正当化し、神様の導きに従えずにいる領域はないでしょうか。
私たちの動機を、神様に明らかにしていただくことが大切です。私たちは、見栄えが良いから信仰の道を歩んでいるのでしょうか。人の目に良いこと全てが必ずしも、あなたの果たすべき神からの使命であるとは限りません。
平安は、神様の御心の中を歩む指標の一つです。主に信頼するとき、私たちは主の平安を体験します。信仰なしには、神を喜ばせることはできません。これは、私たちが踏み出すどんなことにも、自分の力では成し得ないことを可能にしてくださる、神の力を信じる信仰が必要であることを意味します。(参照・イザヤ26:3、ヘブル11:6)
これまでの信仰の歩みで、妥協を選んだ領域がなかったか見直してみましょう。主は、私たちが信仰の新たな一歩を踏み出し、主の最善を受け取ることを望んでおられます。今日あなたが選んだその行動は、信仰を必要とすることでしょうか。信仰がなければ成し遂げることのできないことでしょうか。
GOD BLESS YOU!
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