兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(新約聖書・テサロニケの信徒への手紙一5章12~18節)
理不尽は避けて通れない
理不尽の【理(り)】は、「物事の筋道、道理、秩序」などを指し、【不尽(ふじん)】は、「尽くさない、足りない、満たない」などを意味します。理不尽とは、「道理に合わない」「筋道が通らない」という意味の言葉です。
少し前にドラマ化や映画化もされた『銀の匙(さじ)』という漫画があります。大蝦夷農業高等学校という架空の学校が舞台の漫画で、この学校の校訓が「勤労、協同、理不尽」でした。この漫画では、動物を愛情込めて育てても、最後は食肉にしたり、頑張っても必ずしも報われるわけではなかったりすることが、生徒たちの目を通して紹介されていきます。作者がこの学校の校訓にあえて「理不尽」を入れたのは、そういう現実から目を背けてしまう現代に対する思いがあったからではないかと、私は受け止めています。
理不尽の中に理不尽が存在する理不尽
これまでの保育が、これからの日本を救えるかと問われると、結果はおぼつかないとしか言いようがありません。私たちの世界は、理不尽を叫べば世の中が変わるという認識の歴史的な転換点を迎えている一方で、実際の生活においては、理不尽とは縁が切れない世の中で生き続けなければならないという、何とも理不尽な状況にあります。
私たちの世界には、さまざまな理不尽がまかり通っています。それは許されざることであると、私たちはこれまで思って生きてきました。勤労や協同や努力は報われるものだという幻想を追いかけ続けてきました。しかし、いつまでたっても理不尽を絶滅させることはできず、むしろ、理不尽は無限に出現しているようにも感じます。
理不尽とは結局、人が生きることによって生じる事柄なのです。私たちの生活そのものが理不尽に満ちています。そして、「お金で解決」という言葉があるように、私たちは、さまざまな理不尽を回避し、それから身を守るために「お金」を使ってきました。サービスとは、理不尽をお金で引き受けることだという理解が一般化し、現実的にこうした理不尽の絡み合ったやり取りによって現代社会は成り立っていると言っても、過言ではなくなりました。そして、いつの間にか、その理不尽の代表格の一つに「子育て」が挙げられるようになってしまいました。
子育てとは、現代の価値観からすれば、理不尽の塊です。現代社会において求められる保育とは、その理不尽の塊である子育てを、サービスとして引き受けることになってしまいました。思い通りにならない子どもたちの成長に振り回され、なかなか上手く結果が出ない子育てを、保育職は、給料という金銭と引き換えに引き受けさせられる構図になりましたから、保育に対する求めは、自然と理不尽を極めていくことになりました。これでは、保育職はたまったものではありません。そして、当然、自分たちもその理不尽に巻き込まれているわけですから、精も根も尽き果ててしまいます。
AI保育職に希望はあるのか
昨今、人工知能(AI)の進歩が著しい中で、私も、特に注目を集める生成AIに触れてみて驚きました。感情の理解や表現も、理想的といえるほどに仕上がっていますし、情報収集などは特に優れており、上手く使いこなせば、現状のレベルでも、保育の考察や計画立案を全てAI任せでできてしまうだろうことに驚かされました。
もし仮に、AIに温かみのある身体が用意されたとすれば、未来の保育職は人間ではなくなるかもしれません。感情のブレもありませんし、事前に禁止されていることは決してしないでしょうから、虐待も起こらないでしょう。褒めて欲しいときに褒め、不注意などによる事故は決して起こさず、教えるべきことを教え、災害などでは身を呈して子どもたちを守り、献身的に尽くしてくれるでしょう。
しかし、私たちが気付かなければならことがあります。この連載は今回で最終回となりますが、ここまでお付き合いいただいた人たちには、もうお分かりだと思います。たとえAIを駆使して保育職を「完璧」にしたとしても、子どもの成長や発達には必ず理不尽が伴うのです。
人と交わることは、理不尽を交わすこと
子どもたちと一緒に時間を過ごして分かることは、「子どもは理不尽の塊」だということです。それは、子どもたちが大量生産された規格品ではないことを示します。そしてそれは、子どもたちが、私たちの知識や技術では把握しきれないものを付与されている「奇跡の塊」でもあることも示しているのです。
そんな子どもたちが成長して大人になるわけですから、「人間そのものが理不尽の塊」だとも言えます。端的に言えば、私たちが社会生活を営むそのただ中で、理不尽は無限に発生するのです。これは、人智(じんち)を超えたことなのです。フリードリッヒ・フレーベルは、子どもたちの中に神性を見、現代の保育論の基礎を築きました。
この視座に立つとき、私たちは、人智を超えた存在を受容することからしか、保育は成立し得ないことを認知させられます。それこそが、信仰でもあるのです。
理不尽を知っているからこそ信仰が問われる
保育における信仰とは、無から有をつくり出す奇跡を見通す力です。一見、何の意味もない子どもたちの言動から、理不尽ではなく、奇跡を見通すことが求められるのです。これは、AIには決してまねのできない、私たち人間に残されるべき唯一の力です。
私たちは、理不尽を知っています。そして、その理不尽が、私たちの人智を超えて奇跡を生み出す姿を見て、私たちは勇気付けられ、今までの人生を歩んできました。そうであるなら私たちは、その信仰を力強く語るべきですし、そこから生まれる奇跡を待ち望むべきです。教育や保育に関わる人たちは、そのことを強く証ししてくれます。
「日本のフレーベル」と呼ばれた倉橋惣三は、こんな言葉を残しています。
子どもが帰った後で、朝からのいろいろのことが思いかえされる。われながら、はっと顔の赤くなることもある。しまったと急に冷や汗の流れ出ることもある。ああ済まないことをしたと、その子の顔が見えてくることもある。一体保育は・・・一体私は・・・。とまで思い込まされることもしばしばである。大切なのは批(こ)の時である。批の反省を重ねている人だけが、真の保育者になれる。翌日は一歩進んだ保育者として、再び子どもの方へ入りこんでいけるから。(倉橋惣三著『育ての心』より)
これこそが、AIにはできない部分です。信仰とは、この世ならざるものに対してのへりくだりであり、それは、あたかも私たちに臨在する神の姿を証しすることです。理不尽を認めず、その理不尽に寄り添い、保育職自身も悩みを告白しつつ、その子を取り巻く人々と手を取り合いながら歩んでいくことこそが、保育の理想なのです。本来の子育ては、周囲の人たちが悩みながらも支え合い、励まし合い、希望を語り合うことによって幸せに満たされる行為だったはずなのですから。
この2年にわたる連載を終えるに当たり、もう一度、一人一人の子どもを中心に、幸せが生み出されていく世の中になりますように、そして、その尊い働きを保育職がしっかりと担っていくことができますようにと、祈ってやみません。
「仰ぎ乞い願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、あなたがたと、あなたがたの帰りを待っている全ての人々、あなたがたにつながる全ての人々の上に、限りなく、豊かにありますように。アーメン」(終わり)
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