人間の持つ真実のみが、真に相手をゆさぶり、変えていく 下田ひとみ『トロアスの港』

2017年8月19日06時11分 記者 : 雜賀信行 印刷
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下田ひとみ『トロアスの港』(作品社)

「トロアス」と聞いてピンと来た人は、聖書をよく読んでいる人だ。

パウロは伝道旅行を3回している。1回目(使徒13~14章)は、キプロス島や小アジアを中心に伝道した。2回目(使徒15:36~18:22)はギリシャまで足を伸ばしている。3回目(18:23~20:16)はエフェソを中心にして、同様にギリシャまで旅をした。

この時、小アジアの西の端にある、ギリシャへ渡るための港町だったのがトロアス。ここからキリスト教はアジアから飛び出してヨーロッパへと伝わったのだ。

トロアスでは、パウロたちにとって重要なターニングポイントとなる出来事が起きた。マケドニア(ギリシャ)人が助けてほしいと願う幻をパウロは見て、予定を変えてヨーロッパ宣教の道が開かれたのだ。

「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので・・・ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った」(16:6~8)

下田ひとみ『トロアスの港』(作品社)は、誰の人生においてもこの「トロアス」があることに気付かせてくれる小説だ。主人公が「トロアスの港」について語られたある説教を思い出す場面がある。

「わたしたちの人生において、行き詰まり、先が見えなくなって途方に暮れる『トロアスの港』は、必ず存在します。・・・正しいことをしているはずなのに、道が次々と閉ざされていく。『神様なぜですか?』と、パウロは問うたことでしょう。どうしても納得がいかない。でも、こたえはない。トロアスの港から見えるものといえば、船がなくては渡れない、海、また海ばかり」(149ページ)

米国西海岸のオレゴン州で起こったある悲劇的な事件でこの小説は幕を開けるが、その全編の舞台となっているのは、古い城下町にある、幼稚園が併設された教会。そこに米国の神学校を卒業したばかりの青年伝道師、北見城治(きたみ・じょうじ)がやって来る。

その教会では60代の藤堂靖章(とうどう・やすあき)牧師とノルウェー人の女性宣教師アンネマリエ・オルセンが北見伝道師の到着を待っているが、藤堂牧師はこの青年伝道師について「ある理由で・・・心が騒いでいる」(7ページ)、「オルセン先生にだけは打ち明けようか」(9ページ)と、胸に秘めた何かがあることが読者にほのめかされる。「息子の文彦はもちろん、十六年前に亡くなった妻も知らない秘密が、靖章にはあったのである」(9ページ)

藤堂牧師が隠している秘密とはいったい何なのか、プロローグの悲劇的な事件はこの登場人物たちとどう関わっていくのかと、謎めいた雰囲気の中で物語は展開していくが、その後も、北見伝道師が暗い地下道を逃げる夢を見続けるのはなぜか、文彦の恋人である森中みずかがどうして真夜中に幼稚園に忍び込みベートーベンの「月光」を弾いていたのか等々、登場する人物がそれぞれ抱える「トロアス」の謎が一つ一つ徐々に明らかにされていく。

それは、パウロが経験した「トロアス」と言うにはあまりにも過酷な、心に深い傷を残す出来事だったのだが、そこで彼ら彼女らが信仰をめぐる切迫した問いの前に立たされることにも小説は踏み込んでいく。どうして神は人を苦しめることなく、「平凡に生まれ、平凡に育ち、・・・普通の人間で」(128ページ)いさせてくれなかったのだろうか――。

その魂の深淵の前に一緒に立ちながら、藤堂牧師は北見伝道師にこのように語り掛ける。

「神は何でもできるのです。先生を助けることも、つらい思いをさせずにすませることも、初めから苦しみにあわなくさせることも。しかし神は何も先生に手出しをなさらなかった。いつもただじっと、先生を見ていてくださった。なぜなら神は計画を持っておられたから。おそらくそれは今にいたっても、我々には秘(かく)されていることですが――神は意志を持って、先生を助けられなかったのです」(150ページ)

そして、その「神の計画」とは、本人の思惑とは関わりなく、その苦しみを通らされた人でなければできないあり方で周りの人々を慰めていたことではなかったかと、藤堂牧師は訴えるのだ。それはまるでキリストが「受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ53:5)、「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(1ペトロ2:24)と聖書で述べられているのと同様に。

「先生の語る言葉で、人々は喜びに満たされていきました。うなだれていた者がやる気を起こし、つまずいていた者が立ち上がる。先生の祈りは、たくさんの人々に慰めを与えました。わたしは北見先生に慰められたことで、人生を先に進ませる勇気を持てた人たちを、たくさん知っています。理屈や小手先で、人は人を変えることはできません。その人間の持っている真実のみが、真に相手を動かし、ゆさぶりをかけ、変えていくのです」(127ページ)

この小説はミステリーのように、登場人物それぞれが人知れず抱え続けてきた深い悲しみと痛み、そしてそれらが交錯して織りなす謎の一つ一つをやがて明らかにしてゆき、最後は「魂の再生」に向かう希望の中で閉じられる。

作者は、本紙で連載が始まったばかりの「思い出の杉谷牧師」をつづる下田ひとみさん。両方を読み比べてみると、下田さんが実際に経験した教会生活がこの小説のあちらこちらに反映されていることが分かる。

クリスチャンを主人公にしてその信仰の葛藤を描ける日本ではまれな作家である下田さんの最新作。ぜひこの夏、その物語世界に入って、人間の魂の真実、キリスト教信仰の深みに触れてみてはいかがだろうか。

下田ひとみ『トロアスの港』
2016年12月25日初版
四六判・160ページ
作品社
定価1300円(税別)

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