原爆の中でも、広島には人が住み、普通の暮らしがあった 「ヒロシマ」体験者の近藤紘子さんインタビュー(前)

2017年8月15日10時50分 記者 : 守田早生里 印刷
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近藤紘子(こうこ)さん

1945年8月6日、爆心地のすぐ近くにあった広島流川教会の牧師館で被爆した近藤紘子(こうこ)さん。現在、日本基督教団三木志染(みきしじみ)教会(兵庫県三木市、近藤泰男牧師)の牧師夫人として教会に仕えながら、「ヒロシマ」の語り部として全国で講演会を行う。

父の谷本清氏は広島流川教会の牧師で、終戦直後から米国全土を巡り、広島の惨状を伝えるべく講演活動を行った。また50年からは、被爆した少女や孤児の救済活動、渡米治療に取り組んだ。皆が生きるだけで精いっぱいだった戦後、身を粉にして世界平和のために奔走したその理由は何だったのか。谷本牧師の長女、近藤紘子さんに話を聞いた。

――被爆したのは生後何カ月の時ですか。

私は1944年11月20日生まれなので、8カ月の時です。父は、原爆投下の2年前、43年に沖縄の教会から広島流川教会に赴任したばかりでした。8月6日、私と母は広島市幟町(のぼりちょう)にある教会の牧師館にいました。その日の朝は、教会婦人会の会長だった高木さんが母を訪ねて家に来ていたそうです。

――その時の様子をご両親から何か聞いていますか。

母は私を抱っこしながら、高木さんと何かお話をしていたようです。そこに突然のピカドンです。幟町は爆心地から1・1キロメートルの場所にあります。当時は、それが原子爆弾なのか新型爆弾なのか分からないけれど、その1発で牧師館は全壊。がれきに埋もれてしまった母は、一瞬、意識が遠のいたそうです。遠くで赤ちゃんの声が聞こえてくる・・・そういう感覚だったそうですが、次第に意識を取り戻して、何とかがれきの中から逃げ出して、そこで見たのは辺り一面の火の海。私を抱えて、「神様、どうかこの子だけはお助けください。私はどうなっても構いません。どうかこの子だけは」と必死に祈ったそうです。とにかく逃げることで精いっぱいだったと聞いています。

――その時、谷本牧師は?

爆心地から3キロメートルほど離れた場所で疎開作業をしていました。原爆が投下された直後、父はすぐに小高い丘の上に登って市内を見渡したそうです。「これは大変なことになった。妻や娘は無事か。教会の人々、町内の人は・・・」と、とにかく教会と牧師館がどんな状態でも、それを見届けたいという一心で、走って市内に戻ったようです。

――ご両親は再会されたのですか。

何もなくなってしまった広島市内、どんな焼け野原の中でも、夫婦ですから、歩き方や姿勢などで分かったのでしょう。何とか再会することができました。

父は母に会うまでの数キロメートルを走る途中、「助けてくれ」「水をくれ」という声をたくさん聞いたそうです。がれきの下敷きになっている人を引っ張り出そうと腕を引っ張ると、皮膚だけがずるっとむけてしまったり、男なのか女なのか、もう判別もできないほど焦げてしまっている人もたくさん見たと聞きました。その中でも、「お前までここにいたら、死んでしまうぞ。早く逃げろ」「私たちのことはもういいから、早く逃げるんだ」という声も聞こえてきたといいます。父は何もかも振り切るように、とにかく教会と家族の無事を確認しに走ったそうです。

――ご両親は再会した後、どんな会話を交わしたのでしょう。

父は母に「教会は、牧師館はどうなった」「高木さんはどうした。無事か」と聞いたのですが、娘を抱えて必死に逃げてきた母は「分かりません」としか答えられなかったそうです。父は実際に口にすることはなかったのですが、腹の中では、「牧師の妻が教会や教会員のことを確認せず、自分と娘のことだけ考えるなんて、何をしとる」と思ったそうです。

――その後の紘子さんとご家族は?

父、母、私の3人はその後、吐血、下血、嘔吐(おうと)を繰り返し、体調が悪化しました。両親は必死に祈りました。何もなくなった広島市内には病院もないし、なすすべもなかったのですが、教会員の医学生の方が私たちを診てくださったようです。しかし、彼は「紘子ちゃんはもうダメでしょう」と父に言ったそうです。実際、幟町で助かった赤ちゃんは私1人だったそうです。

ひろしま
原爆ドーム

――教会はその後、再建されたのですか。

そうですね。屋根も吹き飛んで、ガラスも全部割れてしまいましたが、外壁というか、形だけは何とか残っていたのです。教会員は、7、8割の方々が原爆で亡くなりましたが、それでも再建するために、屋根のない教会に集まっていたようです。

――戦後、何か記憶に残っていることはありますか。

年頃の女性が教会に集っていて、私はまだ小さかったので、その女性たちから「こうこちゃん」と言ってかわいがられていました。長かった私の髪の毛をクシでといてくれて、でも、よく見るとクシを持つお姉さんの手は、指と指がくっついて、見る影もなく爛(ただ)れていたのです。優しく話しかけてくれるお姉さんの顔を見たいと思ったのですが、子どもながらに「見てはいけない」と思って、彼女たちの顔を見ることはできませんでした。

――被爆者としてさまざまな研究の材料にもされたとか。

爆心地から1・1キロメートルと近かったにもかかわらず生き延びた私たちは、良い研究の対象だったのでしょう。私は幼い頃から、定期的に米国軍による検診を受けていました。中学生くらいだったでしょうか。いつも検診を受けるABCC(Atomic Bomb Casualty Commission)、原爆傷害調査委員会の検診に行くと、下着もすべて脱がされ、ふんどしのようなものを下半身に充てているだけで、あとは全裸の上に、綿でできたガウンのようなものを羽織らされたのです。暗い部屋に入ると、かすかに英語やフランス語、ドイツ語のように別々の外国語がいくつか聞こえてきました。お医者さまの集まりだったのかもしれません。そこで、スポットライトのようなものを当てた舞台にいきなり上がらされ、ガウンを脱ぐように言われたのです。年頃の女の子ですし、それはそれは本当に恥ずかしかった。嫌で嫌で、「神様、私をここから早く連れ出してください」と祈っていました。

――谷本牧師の働きも紹介されている、米国でベストセラーになった『ヒロシマ』の著者ジョン・ハーシー氏との出会いは?

ジョン・ハーシー氏が広島を訪れたのは、終戦から8カ月後でした。カトリックの神父さまと一緒に、私たちが当時住んでいた場所を訪れたのです。次の日もおいでになるとおっしゃっていたのですが、その日もあいにく父は外出の予定がありました。そこで父は英文で、あの日、広島で何が起きたかをレポート用紙8、9枚くらいに書き残し、それを母に渡すよう頼んでおいたそうです。当時は英語の辞書も焼けており、それに急いで書いたので、誤字や脱字だらけで、「本来なら書き直して清書をしたいところだが、今の私には時間がないので、申し訳ない」と前置きをして、レポートをつづっていました。その文章は、長い間、私は見ることができなかったのですが、2年前、ジョンのお孫さんのキャノン・ハーシー氏がエール大学に保存してあったその文書のコピーを持ってきてくださったのです。これはうれしかったですね。

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