信仰生活を続けていく中で、見た目は同じでも、自分の肉の力(神様抜き)でやるか、それとも神様と共に生きるかで、結果がまるで変わってくることを体験してきました。
前者は、たとえ良い動機で始まって喜びがあっても、途中から重荷になったり、自分がやっていると思うので高ぶり、やっていない人が許せなくて腹を立て、裁くようになります。人を裁くと、心が砂漠になります。
後者は、良い動機で始まって喜びがあるところまでは一緒ですが、神様と共にやるので、重荷ではなく、自分の足りなさに目が向かうので、謙遜になって感謝が生まれ、さらに喜びで心があふれます。
見た目は似ていますし、ちょっとした違いのようですが、大違いです。
前者は、生まれたままの性質です。一方で後者は、神様と出会い、神様を信じ、その方を主として心に迎え、その方と一緒に歩むことです。成長すると、神様の導きからはみ出すこともなくなります。
見た目は同じに見えたとしても、本質は全く違うのです。
前者で生きると、次のようなものが生じます。
肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊(めいてい)、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。(ガラテヤ5:19〜21)
心は不安と心配と怒りにあふれ、自分も人も生かしません。
しかし後者で生きると、次のようなものが生じます。
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ5:22、23)
心は喜びと平安にあふれ、自分も人も生かします。
後者に生きる秘訣は、次のことにあります。
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。(ガラテヤ5:24〜26)
- 神様抜きで生きる肉の性質を、十字架につけること
- 御霊に頼って生きること
- 御霊に導かれて生きること
- 他者に対していどんだり、そねんだり、自分を大きく良く見せようとする虚栄心を捨てること
ここがキリスト教信仰の、簡単なようで難しい点です。神様に頼り、自分の力で生きないので重荷ではありません。しかし、神様に頼り、自分の力で生きないというのは、自分に死ぬことです。
自分を十字架につけようとすると、自分が延命処置を求めてきます。それでも神様に頼って生きることです。それが、人間本来の生き方なのです。
神様がこの世界に争いや不幸を生み出しているのではなく、罪という、神様抜きの人間の性質がそれらを生み出しているのです。神様は、人間に自由意志を与えられた故に、それを許容しておられるのです。
そして、悔い改めるのを待っておられます。イエス様を信じ、神様によって生きる道を選び取れるように祈っていきたいですね。
◇
















