私は学生としてイランに8年間滞在し、大学の課題の一環として、市井の人々の声を拾うフィールドワークに取り組んでいたことがある。その中で私は、形式主義的な宗教に飽き足らぬ魂の声に耳を傾けざるを得なかった。暴力による強制が、皮肉にも違法とされた十字架の受難への静かな回心を呼び起こしている事実を、私は目の当たりにした。
「なぜイラン人が(ゾロアスター教を国教としていた)ササン朝を見捨ててイスラム教に改宗したか分かるか。坊主がササン朝の後期にのさばったからだ」
話が2022年のヒジャブデモから神権統治に及んだとき、ある在日イラン人にこう言われたことがある。
イランは、イスラム教シーア派が多数派を占める国である。イスラム急進派のイメージが強いと思うが、イブラーヒーム・ライーシー前政権以来の無策や、米国が支持した国連制裁再開などで経済が極度に悪化する中、それでもイスラム教の戒律を強制する政府に過半の人民は愛想をつかしていた。
皮肉にも、政治をもってして宗教を強制し、力づくで国民を天国に連れていくのだとする政策は、国民の宗教嫌いを誘発し、その過半がイスラム教から大きく距離を置くようにさせた。それは非公式の統計からも、私の同国での経験からもうかがえる。
では、彼らは無神論者となったのだろうか。確かにそういう人もいる。もちろん、それは極度に政治化し個人をおざなりにした宗教政策の帰結だが、道徳と相反する政治の次元から逃れ、内なる神に救いを見いだそうとする人がいたことも、民衆の観察を通じて聞いている。
ある人は、スンナ派やシーア派という不純を取り除いて、コーランのみのイスラム教たるコーラン主義に走り、ある人はヨガや米先住民の神秘に救いを見いだし、ある人はインド・イラン神話の神々を求めることで魂の渇きを克服しようとした。とどのつまり、私個人の見解によれば、圧力や社会的執行力による信仰心の強化という歴史的実験は見事に失敗したのだ。
だが一方、孤児となった魂たちが、どこかに神がおられると信じ、その声を聴こうともがく姿も、フィールドワークから見て取れた。
ある元兵士は民衆の暴徒化に際し、上官の発砲命令に抗議したことで左遷された末、あらゆる社会保障をはく奪された中で福音書に触れた。そこで彼が出会ったのは赦(ゆる)しの神だった。こまごまとした命令の実行を迫る神の顔のみを見てきた彼にとって、それがどれだけ衝撃であったかは想像に難くない。
私は現在、ユニバーサリスト的な信条を持っているが、高校生の頃、福音書に記された姦通(かんつう)の女の節に至り、泣き出したことがある。だから、社会的に卑しめられた元兵士が福音書を読んで受けたショックは、想像し得るどころか共感すら覚える。
福音書に見いだされる神は赦しの神である。その赦しの神は、ある個人の内で、峻厳(しゅんげん)さと恐怖により支配する神に対し、全き勝利を収めたのだった。極度に政治に偏った峻厳さと恐怖に打ちのめされた者にとって、ただひたすら寄り添う者が救世主と成り得た。
カトリック作家の遠藤周作に『侍』という作品がある。主人公の侍は、スペイン王に会うため海外に渡り、キリスト教信者となるものの、帰国後に改宗をとがめられ切腹するというストーリーの小説だ。この話の主役たる侍は、全てに失敗したところで、卑しめられた自分と共に卑しめられ、常にそばにいてくれる「彼」を発見する。
公的宗教に失望しきる中、卑しめられる体験を経て神に出会う話には、人類学上のオーラルヒストリーのみならず、イラン社会の苦悩が見て取れた。
ちなみに、遠藤周作は当初、小説のタイトルを「王に会った男」にしようとしていたという。
キリスト教メディアへの寄稿であるため、警察による弾圧の中、イエスを信じるようになったイランの人々の話に焦点を当てたが、先ほど書いたごとく、コーラン主義やバハイ教などを奉ずるようになった人々もいる。
だがしかし、キリスト教はシーア派との文化的構造の一致や近似の故に、他宗教より宣教に有利であると個人的に思う。
その共通点とは、終末思想と救世主である。イランでは、シーア派の主流派である十二イマーム派が、宗教的な多数派である。この派の思想では、11代目イマーム(預言者の血統に連なるシーア派の指導者)ハサン・アスカリーの子である救世主マフディーが、この世の終わりにイエスと共に幽隠から再臨し、悪を滅ぼして世界は救われるとされている。
十二イマーム派はこうした救世主信仰を持っており、イエスもマフディーと共に再臨するとすらされていることから、イランの人々は皆、イエスを知っている。
スンナ派にもイエスが終末に再臨するという伝承(ハディース)はあるが、十二イマーム派の場合、いかにイスラム法という戒律を守っても、役に立つのは救世主を信じるという前提があってこそとされるなど、強調の度合いは全く異なる。この救世主への思慕の情がはぐくんだ文化を突くことが、イランでキリスト教宣教が合法となった折には求められるように思う。
十二イマーム派の公式な救世主は、カーイムムハンマドやサーヘブザマーン、あるいはマフディーと呼ばれる救世主だが、救世主に対する思慕は文化となり、折にふれ、それは英雄待望となって歴史上に顕現する。例えば、イラン・イスラム革命におけるルーホッラー・ホメイニー師は、そのエピファニーである。文化となった精神は、簡単に消えることはない。例えば、シーア派が多数派となった今のイランでも、ゾロアスター教の一派であるズルワーン派の信仰の残滓(ざんし)が見て取れることがある。
しかし、このカリスマ信仰的発想が、ある人物を無謬(むびゅう)とするフィクションと個人崇拝を生み、その虚構の果てに現在の経済崩壊と国民の暴徒化、それに伴う熾烈(しれつ)な流血の鎮圧を招いた側面があることも、今後のイラン情勢を見る上で忘れてはならないと思う。今、イランの反体制派の中に旧王族を担ぐ動きがあるが、無謬というフィクションのわなにはまるとき、今の混乱と同じ轍(てつ)を踏むことになってしまうだろう。
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