1965年に来印したグラハム・ステインズ。彼はオディシャ州のハンセン病患者たちに34年間仕え、その傷を洗い、家族として愛した。妻グラディスと3人の子と共に「共生」を実践する彼らの働きは多くの実を結んだ。しかし、その果実がかえってあだとなり、ヒンズー主義者らの反発を招く。1999年1月、彼は息子2人を連れ、運命の地マノハルプールのキャンプへと向かった。(第1回から読む)
1999年1月、インド内陸部の冬は、寒さに慣れぬ現地の人々には、時に厳しい冷気を感じる。特にオディシャ州の内陸部に位置するマノハルプールの夜は、ジャングルから流れてくる湿った冷気がまるで刺すようだった。グラハム・ステインズ宣教師は、この村で開催される恒例の「ジャングル・キャンプ(聖書研修会)」を誰よりも楽しみにしていた。そこには、福音を伝えてきた貧しい農民たちが、1年の収穫の感謝を神にささげるために集まっていたからだ。
今回のキャンプには、いつも以上に特別な喜びがあった。10歳になる長男フィリップと、6歳の次男ティモシーが同行していたからである。「パパ、今日はジープで寝るんでしょ? 冒険みたいだね。最高だよ!」幼いティモシーは目を輝かせた。父と兄と一緒に車中で夜を明かすことになっていたからだ。
多忙を極める働きの中で、息子たちと過ごすこの静かな夜は、グラハムにとっても神が与えてくれた束の間の休息であった。1月22日の夜、冷え込みが厳しくなったため、3人は村の広場に停めた1974年製の白いウィリス・ステーションワゴン(ジープ)の中で、寄り添って眠りに就いた。
しかし、その静寂は、地獄のような怒号とけたたましい足音によってかき消された。正確には、1月23日の午前0時20分ごろだ。リーダーのダラ・シン率いる、ヒンズー教過激派「バジュラン・ダル」に関連する50人以上の暴徒たちが、松明(たいまつ)と斧を手にジープを取り囲んだのだ。彼らは「キリスト教を追い出せ!」「ヒンズーの神々の勝利だ!」と、常軌を逸した叫び声を上げながら、眠っていた親子を襲撃したのである。
窓ガラスが砕け散る激しい音に、グラハムは飛び起きた。しかし、すでに外に出ることは不可能だった。暴徒たちはあらかじめ、ジープのドアが開かないように、外から大きなつっかえ棒で固定し、車の周りに大量のわらを積み上げていたのだ。
この狂気の集団は、ジープもろともガソリンをまいた直後、一斉に松明を投げ込んだのである。取りつかれたような暴徒たちの叫び声の中、炎は無惨にも、車もろとも3人を焼き尽くしたのだった。
焼け跡からは、グラハムが必死にドアを蹴り、窓から逃げ出そうとした形跡が確認された。しかし、外から取り囲んだ暴徒たちは、逃げ出そうとする親子を鉄パイプや棒でたたき、執拗に炎の中へと押し戻した。彼らは子どもを含む3人が焼き殺される凄惨な光景を前に、勝利の雄叫びを上げていたのだ。暴徒たちは、あらかじめ周到な暴力的威嚇をして、村人たちが3人を助けに近づくことさえできないようにしていたのだ。
翌朝、夜が明けて暴徒たちが去った後、村人たちがジープの残骸に近づいた。そこで彼らが目撃したのは、炭化した3人の遺体だった。遺体は完全に重なり合っており、父グラハムが、2人の息子をしっかりと抱きしめた姿勢のまま、絶命していたのだ。10歳のフィリップを右に、6歳のティモシーを左に、父グラハムは、最後の力を振り絞って、2人の息子を抱きしめ続けたであろうことは容易に想像がつく。
「フィリップ、ティモシー、大丈夫だ。大丈夫だ。お父さんはここにいる。イエス様もご一緒だ」。遠のく意識の中で、父は息子たちを強く抱きしめ、最後まで励まし続けたに違いない。(続く)
■ インドの宗教人口
ヒンズー 74・3%
プロテスタント 3・6%
カトリック 1・6%
英国教会 0・2%
イスラム 14・3%
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