そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。(ヨハネの福音書19章16節)
十字架刑は、神聖な都エルサレムの城壁の外で執行されました。イエスは罪を犯しませんでしたが、世人の罪を負ういけにえとして、人々から退けられ、呪われた場所へと身を落とされました。
それは、父なる神に対する従順と、人類救済の愛を全うされるためでした。
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。(ルカの福音書9章23、24節)
イエスはご自分を捨て、十字架を背負われました。イエスが、死に至るまで従順と謙遜の模範を示されたように、イエスを神の御子と信じる者は、日々自分を捨て、自分の十字架を負ってイエスについて行くのです。自分の十字架を負うとは、信仰により神の御心に従った生き方をし、自己中心的な生き方をやめることです。
自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。(ルカの福音書9章24節)
人はたとえ全世界を手に入れたとしても、自分の命を失えば、何の益になるでしょうか。自分の思うまま、好き勝手に、自己中心的な生き方をしても、罪から来る報酬は死です。
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ人への手紙6章23節)
主イエスは、自分の十字架を背負って私について来なさいと言われます。
わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。(ヨハネの福音書12章26節)
イエスに仕えるなら、天の父からの報いは大きいのです。私たちが、置かれているそれぞれの場所で十字架を担い、神の御心に従うことを神は望んでおられます。神に従う者は、神を愛している者です。神はそれをご覧になられています。
一度しかない人生を、私を造られた創造主なる神に使っていただきたいと望みます。信じる者の救いを完成させ、天の御国へ入れてくれるイエスに感謝し、全ての誉れと栄光をイエスにお返しします。
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